おおむね北緯45度以北の太平洋、ベーリング海、オホーツク海等の北洋海域で操業される漁業の総称。「北方漁業」や第二次世界大戦前の「露領漁業」と表現される場合もある。海域としては、国連食糧農業機関(FAO)における水域区分「太平洋北西部」「太平洋北東部」と重なる部分が多い。当該海域は北米(アメリカ・カナダ)、ロシア(旧ソ連)等の沿岸国に囲まれ、かつ世界の三大漁場の一つである北西太平洋にも連接している。経済価値の高いサケ・マス、カニ、タラ、メヌケ、カレイ・ヒラメ類等の漁場形成がみられるところから、日本でも近代国家の歩みとともに早くからその開発と利用について注目をされ、遠洋漁業部門の中核をなすものと位置づけられてきた。
[廣吉勝治・工藤貴史 2022年9月21日]
日露戦争終了後の1907年(明治40)日露漁業協約が締結されたのを契機として、ロシア極東の沿海地方やカムチャツカ半島等の露領沿岸(当時)、ならびに南樺太(からふと)や北千島等の沿岸や周辺海域において定置網、延縄(はえなわ)、流し網・刺網(さしあみ)等の漁業が盛行した。邦人によるサケ・マス定置網(当時は角網)などは露領沿岸だけでも約300漁場が存在したとされる。こうした「外地出漁」(一定期間外地を根拠地として営まれる漁業)を主とした「露領漁業」が本格的に開始されたのが北洋漁業の始まりであった。サケ・マス、ニシン、カニ等をねらいとするもので、公式統計でもサケ・マス漁獲で大正初期には10万トンを凌駕(りょうが)し、ピーク時には17万トン(1934)を超える実績がみられた。また、これに促され大正後期から昭和初期、カムチャツカ半島や北千島周辺水域で母船式カニ漁業や母船式サケ・マス流し網漁業等の外洋漁業が開始され高揚をみる。母船式漁業のピーク時には前者は母船19隻・付属船182隻(1930)、後者は母船19隻・付属独航船185隻(1933)の出漁が記録されている。さらに、北洋捕鯨についても1940年(昭和15)、1941年においてカムチャツカ・ベーリング海・北氷洋水域で1船団の出漁がみられた。これらの北洋漁業はいずれも大型の投資を伴う漁業の隆盛であったことが特徴といえるが、いずれも第二次世界大戦の激化のなかで中断されることとなった。
[廣吉勝治・工藤貴史 2022年9月21日]
戦後における北洋漁業の再開は、GHQ(連合国軍総司令部)の統治政策としての「マッカーサー・ライン」(「マ・ライン」。漁場拡張禁止のラインで1945年9月当初はほぼ沿岸12海里内に限る)が撤廃される1952年(昭和27)である(「対日講和条約」に基づく)。以降サケ・マス漁業、母船式カニ漁業、トロール・底引網漁業、延縄・底刺網漁業等の北洋漁業が新たな形で一挙に再開・隆盛することとなった。サケ・マス漁業についてみると、大手資本中心の母船式流し網漁業は開初年の1952年には3船団(付属独航船50隻)の出漁であったが、1956年には16船団(同500隻)と急拡大する。また、中小漁業者の本土基地独航方式による中型サケ・マス流し網漁業(30トン船以上)、および延縄漁業(10トン以上)による太平洋あるいは日本海操業は(当時は北緯46~48度以南での操業としたので「以南サケ・マス漁業」あるいは「中部流し網漁業」ともよばれた)、1952年の出漁は流し網船325隻であったが、翌1953年は延縄船も加えて計680隻余と膨らんだ。さらに知事許可である小型船によるサケ・マス漁業は北海道だけでも1000隻を超える勢力となった。これは当時、終戦直後の食糧難を背景として沿岸での乱獲問題が深刻であったが、「マ・ライン」撤廃を契機にサケ・マス漁業が底引漁船等の間引き・転換先とされたことも一因であった。母船式カニ漁業はブリストル湾・オリュ―トル岬沖、オホーツク海方面に、水産大手の共同による1船団の出漁(1953)を皮切りに、1956年には6船団(付属船54隻)の出漁を実現している。母船式底引網漁業の場合は、ベーリング海・ブリストル湾を中心にフィッシュミール工船の試験的操業(1953)を経て、1950年代後半以降はカレイ、タラ等をねらいとし多数の中小漁業者の底引漁船を付属船として従える冷凍母船を中心として軌道に乗る(1954年2船団、1956年4船団、1959年8船団、1960年16船団)。ベーリング・オホーツク海域に出漁する冷凍母船には1万トン級が出現する。北洋母船式捕鯨についても南氷洋捕鯨(10月~4月)の裏作として注目され、大手資本の共同経営の形であるが、1952年、1953年各1船団で開始され、1954年には2船団出漁となる。
[廣吉勝治・工藤貴史 2022年9月21日]
北洋漁業各業種は業界の満を持した再開となったが、漁業規制による制約は早くから訪れた。1952年北太平洋公海漁業条約(通称、日米加漁業条約)の締結によって、日本は西経175度以東の北米海域でのサケ・マスと北米沿岸沖合でのオヒョウ・ニシン漁獲を自発的に放棄させられる。また、1956年にはソ連がカムチャツカ半島と千島列島周辺の公海上に一方的に設けた漁獲規制ライン(ブルガ―ニン・ライン)ならびに日ソ漁業条約の締結等により、北洋でのサケ・マス、カニの漁獲が割当てや海域制限等で規制され、北洋漁業は早くも一つの曲り角に直面する(アメリカの大陸棚におけるタラバガニや、後のズワイガニの採捕についても、アメリカ内政策も手伝って1960年代中ごろには制限的な漁獲取決めを余儀なくされる)。こうした動向に、日本は公海上での操業効率をあげる技術開発(化繊網への切替え等)を行ったり、新たな漁場開発や漁業転換を促進する形で対応する。北洋の業種でも、これまでとくに重視されなかった北緯50度以北・東経170度以西におけるベーリング・アリューシャン海域、およびアラスカ湾海域での北洋延縄・底刺網漁業を、マダラ・ギンダラ・カレイ・メヌケ等漁獲の重要業種と位置づけ、大臣許可の指定漁業と定めている(1963)。また、スケトウダラのすり身化技術開発と企業化を背景として、沖合底引網漁業の北洋海域への漁業転換政策が実施され(1960)、船型も大きく生産力アップを施された遠洋底引網漁業(いわゆる「北転船」による)は翌1961年には専業船・兼業船あわせて123隻が新規に許可され、1969~1977年は182隻の勢力を維持する。また、冷凍魚やすり身のトロール工船漁業も(母船式底引網からの転身政策も手伝って)「北方トロール漁業」として開発され(1970年代)、北洋水域の底引網漁業は1960年代後半から1970年代にかけて全盛期を迎える(1976年の許可数58隻)。1970年代初頭に、北洋に支えられる日本の遠洋漁業部門の年間生産量は400万トンに届く実績をあげ、その海面漁業生産に占める割合も40%を超える水準に達した。とりわけ、おもにかまぼこ加工原料とされるスケトウダラの漁獲の増加は著しく、年間漁獲は1967年から1989年(平成1)に至る23年間、100万トン以上の高水準を維持する(1972、1973年は300万トンを凌駕する)。高度経済成長下、北洋漁業を中心とする漁業の発展的再編は日本を世界屈指の漁業大国に押し上げる役割を果たした。その政策的特徴は、成長の過程で生じた課題をさらなる漁業開発や漁場の外延的拡大で克服しようとするものであった。
[廣吉勝治・工藤貴史 2022年9月21日]
1970年代になって石油危機をはじめ、世界経済を揺るがすさまざまな事態が生じるが、そのなかで200海里漁業水域の排他的管轄権を行使する沿岸国の動向の影響が避けられなくなった。1973年には第三次国連海洋法会議も開始され(国連海洋法条約は1982年採択、1994年発効)、世界は200海里水域、海洋分割の時代に入った。とりわけ、アメリカ、ソ連がいち早く独自に200海里漁業専管水域を実施(1977)して自国水域の囲い込み管理に乗り出したことから、北洋漁業の生産条件は大変革を余儀なくされることとなった。1976年当時、遠洋漁業は年間約300万トンの生産があったが、そのうち外国200海里水域での生産が9割近い(日本水域内の生産は1%程度)。その外国水域生産の7割は米ソ(ロ)両国の水域が占めていたことから、北洋の操業海域の大部分が両国の200海里水域に囲い込まれる形となった。政府は「北洋漁業緊急対策本部」(1977)を設置し、1000隻以上の大幅な減船・離職者対策等を余儀なくされることとなり、また両国への水域入漁という形で新たな漁業外交が必要とされるに至った。
[廣吉勝治・工藤貴史 2022年9月21日]
サケ・マスについては、これまでの日ソ漁業条約を基礎として1978年には日ソ漁業協力協定(旧)が結ばれ、ロシア水域内の漁獲が全面禁止となるとともに、公海や日本水域内の操業についてもロシア河川系資源ということで規制がされた(漁業協力費の負担がある)。1985年に新たな日ソ漁業協力協定が調印され、ロシアの200海里内でのサケ・マス操業が再開される(入漁料の徴収がある)。1988年からは民間協議による合弁事業の形での操業も始まる。日本はこの協定の下、北海道の漁業者を中心として日本・ロシア水域内あわせて2000年(平成12)ごろまで中型小型あわせて200隻以上の操業がみられた(2013年、100隻弱へ。ロシア水域での漁獲割当ては5300トン)。しかしながら、サケ・マス類は母川国主義(遡河(そか)性魚類資源は、産卵のために回帰する河川を有する国が一義的な利益と責任を有するという考え)に基づく資源管理が定着しており(1993年に北太平洋公海における沖取りを全面禁止する条約が発効)、ロシアは独自に自国水域内の流し網漁を禁止する措置を決定するに至った(2015)。そのため日本は代替漁法を検討することとなった。他方、サケ・マス以外の操業については暫定協定下での厳しい操業が続いてきたが、1984年の日ソ地先沖合漁業協定によって相互に相手国200海里水域へ入漁し(相互入漁)、その具体的な漁場、魚種、割当量などを毎年、交渉(日ロ漁業委員会)によって取り決める方式となり、あわせて共同事業も行われるようになった。ロシア水域への入漁については1987年より入漁料支払による有償入漁が追加されており、サンマ、イカ、マダラ等、相互入漁・有償入漁あわせて、2006年5万7000トン、2015年6万4000トン、2020年(令和2)9万1000トンの割当てがあった。
[廣吉勝治・工藤貴史 2022年9月21日]
アメリカの200海里水域では、1977年以降の日米漁業協議によって、毎年、漁場・魚種・漁獲量の割当てが決定され、一定の入漁料を支払って入漁する方式となった。しかし、アメリカは漁獲割当てと自国の漁業振興・水産物輸出推進への貢献度や北米系サケ・マス保存措置の重視、さらには当時趨勢(すうせい)となりつつあった反捕鯨の立場からの制裁等をリンクした立場を強め、外国船のフェーズアウトを意図した入漁料・協力費の増額、および漁獲物の洋上買付け要請(合弁事業方式)をするなど、厳しい対応が続いた。そうした状況の下で、日本は1970年代後半から1980年代においてはサケ・マスやカニのみならず、スケトウダラ等の底魚(そこうお)類等の、水域内での自国漁獲割当てを失うこととなり(1988)、また1981年から開始され増枠が期待された洋上買付け枠も1991年にはゼロとなった。一時期、アメリカ水域の漁獲割当ては洋上買付けを含め年間150万トン(1984)の実績があったが、すべて失うこととなった。
以上の経緯から、北洋漁業における漁場確保は公海域とロシア水域(相互入漁)に期待がかけられ、一時、ベーリング公海域の漁獲は100万トンを超える盛況がみられた(1988~1990)。しかしながら、公海や排他的経済水域の内外に存在する漁業資源の保存や管理に関する「国連公海漁業協定」(1995年採択、2001年発効)やべーリング公海操業の停止やベーリング海のスケトウダラ資源の管理強化(1991~1994)、サケ・マスの沖取りの全面禁止(北太平洋サケ・マス保存条約、1993年発効)、および国連公海大規模流し網漁業停止勧告決議の採択(1991)など、北洋における公海操業を規制する動向が続いた。日本は、大臣承認漁業として新たに漁場を開発したが、勃興(ぼっこう)したばかりの北太平洋の大型イカ流し網漁業(北緯46度以南までの操業、1981年初年度承認隻数371隻)はさっそく大きな影響を受けることとなった。その後も、こうした国際規制の流れは基本的に変わってはいない。残された天皇海山等の公海域でトロール操業等を続ける漁業も「北太平洋漁業資源保存条約」(2015年発効)の制約を受けている。2020年時点で、主力である北洋漁業の許認可隻数の状況をみると、北方トロールや北転船が含まれる「遠洋底引網漁業」3隻、「太平洋底刺網等漁業」10隻、「中型さけ・ます流し網漁業」2隻等が存在している。漁獲量ではロシア水域の入漁を含めても、年間10万トン以下と推定される。
[廣吉勝治・工藤貴史 2022年9月21日]
北洋漁業という語は,現在では普通に使われているが,この〈北洋〉の定義は明確でない。広義には北太平洋ということになるが,これでは漠然としすぎる。緯度による定義(例えば北緯50°以北),海水の塩分濃度による定義(34‰の線以北)などの提案もある。しかし,一般に日本の北の海という意味で使われることが最も多い。そこで,北海道北端をとって,北緯45°以北と定義するのが妥当なところであろう。オホーツク海,ベーリング海からアラスカ湾を含む北太平洋北部である。北洋という語が使われるようになったのは意外に新しい。漁業者間では明治末には使われていたらしいが,一般に広く使われるようになったのは大正期である。カニ工船漁業,サケ・マス沖取り漁業が盛んになり,アレウトさらにはアラスカのブリストル湾の底魚漁業も興隆をみるにいたり,これらに,千島,サハリンなどの沿岸漁業も含めて北洋漁業と総称するようになったのである。北洋漁業のおもな対象魚はサケ・マス,カニ,ニシン,タラ・カレイ・メヌケなど底魚類という,いわゆる北の海の特産物である。
北洋漁業と考えられるものは母船式カニ(1976年限りで廃止),母船式サケ・マス流し網,サケ・マス流し網,サケ・マスはえなわ,北太平洋ズワイガニ,北洋母船式底引網など,北方トロール,北転船,北洋はえなわ・刺網の漁業のほか,北洋捕鯨業である。これらの中には先に述べた北緯45°以南で一部操業する場合もあるが,だいたいは〈北洋〉で操業していると考えてよい。
北洋漁場はもともと生産性が高く,世界の三大漁場の一つである北太平洋北西部の重要な部分を占める。しかし,冬はアリューシャン低気圧,夏は強い偏南風のため,荒天・時化・濃霧に悩まされることが多い海域で,遭難の報がしばしば聞かれる厳しい環境の漁場でもある。ここはこの厳しい環境と闘いながら,日本人が開発した漁場で,北洋漁業は長く,日本の漁業の中でも重要なものであった。一方,この水域はロシア,アメリカ,カナダと接しており,操業にはつねに国際的な問題がつきまとってきた水域でもある。したがって,この水域で行われる漁業は,現在ではすべて,関係国との間に締結された協定・条約に基づいて操業が行われる国際漁業である。1977年,アメリカ,カナダ,ソ連が相次いで200カイリ漁業水域を設定してからは,制約が急速に強まり,カニ工船漁業のように長い歴史を閉じたものもある。
この水域の豊富な資源が開発されたのはそう古いことではない。北海道を足場として千島,樺太(現,サハリン)へ進出していった最初がいつごろかは定かでないが,組織的な開発が行われるのは18世紀の後半以降で,樺太は1773年村山伝兵衛が,千島は99年高田屋嘉兵衛が漁場を開いて以来である。樺太,千島とも,おもな対象はニシン,サケ・マス,タラ,コンブであった。松前藩,江戸末期の幕府直轄の箱館(函館)奉行の経営は,明治維新後は新政府の設置した北海道開拓使,樺太開拓使に引き継がれ発展していく。明治に入ってからは,サケ・マスを追って沿海州,黒竜江(アムール川)まで進出するようになる。カムチャツカへの日本人の進出はかなり遅く,19世紀末になってからである。それ以前に遭難漂着の記録はあるが,本格的出漁は1900年からであった。
こういった沿岸あるいは河川漁業の歴史の上に,いわば本格的な北洋漁業が始まるのは20世紀に入ってからのことである。20年代には,カニ工船漁業,タラ・カレイなど底魚を対象としたミール工船漁業,母船式サケ・マス漁業が相次いで始まり,北洋漁業の黄金時代に入っていく。37年からは北洋母船式捕鯨も開始された。
第2次大戦中,中断していた北洋漁業は,52年の講和条約締結後再び出漁が可能になった。しかし,戦前の高能率漁獲がアメリカ,カナダの漁民に脅威を与えており,サケ・マスについてはアメリカ系の保護の観点から,日米加漁業条約により西経175°を自発的抑止線とし,その西側に限っての操業となった。カニ工船漁業は53年アラスカのブリストル湾に出漁,その後オホーツク海にも船団が出るようになった。ミール工船漁業も54年から出漁,その後,順調に漁獲高を伸ばした。とくに,すり身原料としての利用が開けたスケトウダラは驚異的な速度で漁獲量が増加し,昭和40年代半ばにはサケ・マス,カニ,底魚いずれも高漁獲量を達成し,日本の遠洋漁業の伸びを支えた。しかし,資源の乱獲,日ソ・日米加漁業条約による制限の強化,とくに77年からの200カイリ水域の設定以後は漁獲量の減少を余儀なくされている。
漁獲は底魚が中心で,魚種としては,冷凍すり身にされるスケトウダラが最も多い。そのほかカレイ類,タラ,メヌケ類,ホッケ,ニシンなどが漁獲され,冷凍品あるいはミールに加工される。
北洋漁業はずっと日本の漁業の中で重要な地位を占めてきた。戦前にはサケ・マス缶詰,カニ缶詰が重要な輸出品として外貨獲得に一役買っていたし,戦後も,動物タンパク質の供給に重要な役割を果たした。しかし,主役であったサケ・マス,カニが凋落(ちようらく)するなど,重要性は低下したといわざるをえない。今後再び,以前のような脚光を浴びることはないと思われる。
執筆者:清水 誠
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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