戸栗郷(読み)へぐりごう

日本歴史地名大系 「戸栗郷」の解説

戸栗郷
へぐりごう

室見むろみ川西岸、現飯盛いいもり金武かなたけ付近に比定される中世の郷。郷名は辺久里・部栗・平久里などとも記される。地内に飯盛神社がある。「和名抄」記載の早良さわら平群へぐり郷の系譜を引くとみられ、近世橋本はしもと村の枝郷であった戸切とぎれ村を当郷の遺称地とする説がある(続風土記拾遺)。承元三年(一二〇九)頃、「平久里郷」田所職に壬生真守が補任されている(年月日欠「平久里郷田所職補任状写」青柳文書/飯盛神社関係史料集)。壬生氏は早良郡の郡司の家であった(永久二年一〇月一九日「飯盛山頂出土瓦経銘」/平安遺文 金石文編)。文永八年(一二七一)四月二七日の飯盛宮社領坪付(青柳文書/鎌倉遺文一四)に「戸栗郷」とみえ、飯盛宮の社領が当郷上家・金武名などに計二町七反あった。また年月日未詳の足利氏所領奉行人交名(倉持文書/鎌倉遺文二四)に「戸栗重富」とみえて鎌倉時代末期には足利氏の所領になっている。以後両所はほぼ一体的な動きをみせる。

建武三年(一三三六)地頭代官覚忍から当郷久富ひさとみ名内田五反(号下ヒサケト)が飯盛三所権現に寄進された(同年四月一一日「沙弥覚忍書下」青柳文書/南北朝遺文(九州編)一)。文和三年(一三五四)戸栗、重富しげどめ(現早良区)の両名などが勲功の賞として宇都宮守綱に与えられたが(同年九月一二日「足利尊氏宛行状案」宇都宮文書/南北朝遺文(九州編)三)、延文四年(一三五九)には両所の代官職などが麻生家長に与えられている(同年一〇月四日「足利義詮御判御教書写」麻生文書/南北朝遺文(九州編)四)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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