手結村(読み)ていむら

日本歴史地名大系 「手結村」の解説

手結村
ていむら

[現在地名]夜須町手結・手結山ていやま

夜須村東南に位置する枝村で、東は安芸郡西分にしぶん(現芸西村)。東方山地谷間の農業集落手結山と、港畔の漁業集落手結からなる。天正一六年(一五八八)の夜須庄地検帳では手結山はほとんど水田ばかりで屋敷はなく、また「名」の記載例はごくわずかで、「手結山分」とあり、ほとんど給地にあてられる。出作地として谷間に開発の鍬が入れられて歴史が浅かったのであろう。港畔は「手結大少路」とあり、五代の広さを標準とする水主屋敷が軒を連ねる。田畑屋敷の総計は一六町余だが、江戸時代の本田高は一三二・〇六八石(元禄郷帳)で、寛保郷帳には家数二九〇、人数一千三三五、牛一七、馬一八。その他船六八、塩浜二とあるが、これは横浜よこはま村の漁家や塩浜が含まれる。

手結湊の整備は戦国時代にさかのぼるが、慶安年間(一六四八―五二)野中兼山・小倉三省らの手で大改修が施され、承応元年(一六五二)には枝浦しん町の開設も許された。港を中心とする漁業集落の発展に伴い、浦分の独立性はいっそう強まったのであろう。手結浦の老役は浜口家が世襲、近世中期の浜口関右衛門重敬は好学の士で「手結浦日抄」を残した。「土佐州郡志」は手結浦の戸数二三七、船数三六とし、「手結浦日抄」は同じ時期の戸口を一八〇戸・一千四〇人とする。後者は港の周辺に限ったのであろう。寛政三年(一七九一)浦分改帳(「南路志」所引)は二一八戸、一千五六人、船はいさば四、小舟四、ほかに漁船四八と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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