夜須村(読み)やすむら

日本歴史地名大系 「夜須村」の解説

夜須村
やすむら

[現在地名]夜須町坪井つぼい西山にしやま上夜須かみやすとお出口いでぐち千切ちぎれ

西南流する夜須川の下流域を占め、村域は東西二・五キロ、南北三・二キロの長方形をなす。東は安芸郡西分にしぶん(現芸西村)、北東は枝村の夜須川やすがわ村、夜須川河口の東南が同手結てい村、西南が同横浜よこはま村。山地丘陵を交えてなだらかで、その中央を夜須川が蛇行して沖積平野を形成し、集落は東西の山裾台地に連なる。古墳二基が発見されているように早くから開けた地で、「和名抄」所載の安須やす郷の地であった。平安時代後期には山城石清水いわしみず八幡宮領夜須庄とされ、鎌倉時代初期には土豪夜須七郎行家が御家人地頭として勢力を伸ばした。一五世紀後半、この地域に東から安芸氏の勢力が及んだが、のちには長宗我部氏がとって代わり、重臣吉田重俊が上夜須の城に移った。重俊とその一族は和食わじきうまうえ(現芸西村)を安芸氏方から奪い、安芸氏との戦いに功績があった。

長宗我部検地は天正一六年(一五八八)三月から九月にかけて実施されたが、坪井から始めて夜須川西岸を北上、上夜須で東岸へ渡り、南下して手結で終わっている。検地帳は夜須庄地検帳と表題にあり、西岸分と東岸分の二冊に分れるが、江戸時代の枝村である手結・横浜の両村を含む総地高は一九八町一反三二代五歩、うち田分一六二町八反余・屋敷分二六町三反余・畠分八町八反余。全般に小さい「名」が入交じって、とくに大きな旧勢力の存在はうかがえない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

仕事納

〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...

仕事納の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android