抗日救国会(読み)こうにちきゅうこくかい

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「抗日救国会」の意味・わかりやすい解説

抗日救国会
こうにちきゅうこくかい

1931~37年,日本の中国侵略に反対することを最高目標として民族的抵抗運動を統一するため結成された民衆団体の総称。 34年中国共産党は長征を開始し,その途上八・一宣言を発表して抗日を呼びかけた。この宣言によって民衆,知識人による各種の抗日組織が続々と生れ,これに刺激されて上海文化界救国会,北京文化界救国会などがつくられ,抗日運動は全国的性格をもってきた。 36年5月 31日,各地の救国会と 18都市を代表する六十余名が参集して全国各界救国連合会 (全救連) が上海に成立。全国的最高指導機関として常務委員会を設け,成立大会で宣言と「抗日救国初歩政治綱領」を採択,一党に偏せず,救国のための大同団結中枢となることを目指した。その後抗日ストライキが広がるにつれて,救国会がこれを支援するなど,次第に戦闘的性格を強めていった。そのため国民政府は救国会を弾圧しはじめ,11月沈鈞儒ら抗日七君子を逮捕したため救国会の力は弱体化した。日中戦争勃発後,各界救国会はそのまま抗敵救国会に吸収,組織替えされ,全救連に代って全国抗敵救国協会が組織された。

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改訂新版 世界大百科事典 「抗日救国会」の意味・わかりやすい解説

抗日救国会 (こうにちきゅうこくかい)
Kàng rì jiù guó huì

中国で,1931年9月,満州事変契機に上海に成立した抗日救国連合団体。委員は60名,構成は資本家,知識人,労働者各階層から成り,比率は5:3:3であった。反日運動から抗日運動への展開は,民族危機を反映して,国民総動員体制を盛り上げ,運動形態も,従来日貨排斥など経済本位の闘争から民衆参加の激しい政治闘争に転換したことを意味する。彼らは政府に国交断絶武器支給,対日宣戦布告を迫った。
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