中国で1934~36年に共産党軍が国民党軍と交戦しながら行った国内大移動。徒歩で約1万2500キロを移動したとされる。江西省瑞金を中心に革命根拠地を築いていた共産党は34年、国民党の大規模な包囲攻撃を逃れて西に移動を開始。途中の貴州省遵義で開いた遵義会議では毛沢東が指導権を確立した。共産党軍の本隊は35年に陝西省に到着、36年までに全軍が移動を終え、同省延安に根拠地を築いた。移動開始時に30万人だった兵力は3万人に減少したとされ、交戦などで多くの兵士が犠牲になった。(共同)
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1934年8月から36年10月にかけて行われた中国労農紅軍主力の戦略的大移動をいう。もっとも遠距離を行軍した部隊は2万5000華里(1万2500km)を踏破したことから〈万里長征〉とも呼ばれる。
中国共産党は〈王明(陳紹禹)路線〉の政治的・軍事的誤りのために,国民政府軍の第5次包囲討伐を撃退できず,陝西北部を除く各革命根拠地(ソビエト区)の放棄をよぎなくされた。34年8月,まず紅軍第6軍団が湘贛(しようかん)根拠地から包囲を突破して西進,貴州省東部で第2軍団と合流(紅軍第2方面軍)して湖南西部に進出した。10月,中央紅軍(第1方面軍)は中央根拠地を出発,第2方面軍との合流をめざし,数重の封鎖線を突破して,11月,湖南南部に達したが,硬直した作戦指導のもとで甚大な損害をこうむった。この事態に毛沢東の主張で第1方面軍は進路を変えて貴州に入り,35年1月,遵義(じゆんぎ)会議において毛沢東が軍事指導の中枢をにぎることになった。
運動戦に転じた第1方面軍は貴州,雲南を縦横に転戦し,国民政府軍の追尾を振りきったあと,この地方に根拠地を建設する方針を変更して,5月,四川に入り,6月中旬,川陝根拠地を放棄して西進してきた紅軍第4方面軍と四川西部の懋功(ぼうこう)で合流した。両軍合わせて10万に近い兵力を擁し,中国共産党中央は北上抗日の方針を決定,まず四川・陝西・甘粛省境に根拠地を建設すべく,全軍が北上を開始した。だが,第4方面軍の指導者,張国燾(ちようこくとう)はこの方針に反対し,9月初旬,クーデタ的手段で自軍を南下させ,毛沢東らにもそれを強要した。紅軍内訌(ないこう)の危機に際し,毛沢東らは掌握下の部隊を陝甘支隊(北上抗日先遣隊)に改編,既定方針どおり北上を継続した。これより先,34年11月に鄂予皖(がくよかん)根拠地を離れた紅軍第25軍は,35年9月,陝北紅軍と合流,紅第15軍団を編成して陝北根拠地を強化したが,この消息に接した毛沢東らは行軍の目的地を変更,10月19日,ついに陝西北部の呉起鎮に到着して第15軍団と合流した(第1方面軍主力の長征完了)。いったんは四川・西康地区に南下した第4方面軍も根拠地建設に成功せず,35年11月に第1方面軍のあとを追って長征を始めた第2方面軍と,36年6月,西康ギャンツェ(甘孜)で会同した後,中国共産党中央の説得に応じて再北上し,36年10月,甘粛省の会寧で援護に向かった第1方面軍と会合した。三大主力紅軍の長征はこれで完了したのである。
当初30万の紅軍が3万弱しか陝北に到着しなかったことが示すように,長征は困難をきわめた。国民政府軍の攻撃はもとより,雪山を越え大湿地帯を通過するなど自然的障害をも克服しての行軍は,20世紀の奇跡とも称される。だが,この試練を通じて中国共産党は抗日戦争に向けて政治的・軍事的な瞰制(かんせい)高地を占め,また毛沢東の指導的地位を確立させるなど,コミンテルンに対する主体性をも強めたのである。
なお,紅軍の包囲突破を援護するため中央根拠地にとどまった一部の紅軍は,その後3年間,各地で遊撃戦を継続し,抗日戦争の勃発後,集結して新四軍に編成された。
執筆者:小野 信爾
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1934年から36年にかけて、中華ソビエト共和国の「首都」江西(こうせい/チヤンシー)省瑞金(ずいきん/ロイチン)から陝西(せんせい/シャンシー)省北部まで、紅軍が国民党軍と戦闘を交えながら1万2500キロメートルを歩いて移動した行動。大西遷(だいせいせん)ともいう。
長征は11省と2億の人民に紅軍の指し示す道を明らかにしただけでなく、中国共産党を不抜のものに鍛え上げる役割を果たした。5回にわたる国民党軍の包囲討伐を受けた瑞金の中央根拠地を放棄して長征に出たのは、第一に、毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)に反対する極左路線によって正規戦が行われ、軍事的に困難な状況に陥っていたこと、第二に、満州事変に直面して北上抗日を目ざしていたことがあげられる。朱徳(しゅとく/チュートー)、毛沢東など党中央の直接指導する第一方面軍は、8万余の兵力をもって、1934年10月根拠地を撤退した。これより先、賀竜(がりゅう/ホーロン)を指揮者とする第二方面軍が、湖南(こなん/フーナン)、湖北(こほく/フーペイ)、四川(しせん/スーチョワン)、貴州(きしゅう/コイチョウ)の省境地区に出ており、第一方面軍はこれと合流する予定であったが、国民党軍の激しい攻撃にあい、第一方面軍は貴州に転進、貴州省の遵義(じゅんぎ/ツンイー)を占領した。35年1月、ここで開いた中央政治局拡大会議(遵義会議)で、極左路線が否定され、党内における毛沢東の指導権が確立した。
このあと紅軍の行動は一段と機動性を帯び、湖北、河南(かなん/ホーナン)、安徽(あんき/アンホイ)省境の根拠地を撤退して、四川省北部に出ていた第四方面軍との合流を策した。そして大渡河(だいとが)を強行渡河し、5000メートルもの大雪山を越え、苦難の行軍ののち四川の懋功(マオコン)(現在の小金)で両軍は合流に成功した。ところが第四方面軍の指揮者張国燾(ちょうこくとう/チャンクオタオ)は、党中央の方針に反対し、北上抗日せずに、西康(南西部の旧省名)と四川の辺境に居座ってしまった。毛沢東の率いる第一方面軍は北上を継続し、368日間の行軍ののちに、主力は陝西省北部に到着して新たな根拠地を開いた。一方、第一方面軍の援護作戦にあたっていた第二方面軍は、約2万の兵力で長征を行って、西康省で第四方面軍と合流した。張国燾と政治闘争の結果、両軍相携えて1936年10月、甘粛(かんしゅく/カンスー)で第一方面軍と合流、11省を通過し、18の山脈を越えて長征が終了した。全軍30万の兵力が、途中補充しながら、長征を終えて新根拠地に到着したときは約3万といわれ、その犠牲の大きさを物語っている。しかし、まもなく陝西省北部に強大な根拠地を建設し、抗日戦争を戦うに至った。他方、江西に残留した陳毅(ちんき/チェンイー)らの小部隊は、驚くべき忍耐によって戦力を保持し、のちに新四軍に発展した。
長征は、かつてエドガー・スノーが語ったように、「ハンニバルのアルプス越えも、これに比べれば休日の遠足にすぎない」(『中国の赤い星』)大事業であり、中国革命史を彩る一大叙事詩といってよいだろう。
[安藤彦太郎]
『スメドレー著、阿部知二訳『偉大なる道』(岩波文庫)』▽『岡本隆三著『中国革命長征史』(1981・サイマル出版会)』
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大西遷ともいう。1934年から36年にわたる紅軍の華中,華南から陝西(せんせい)省北部への大移動。中国共産党の中央根拠地である江西ソヴィエト区は,33年に始まる国民政府の第5次包囲攻撃を,共産党内における指導の誤りによって撃退しえず,34年10月移動を開始した。この部隊は第一方面軍で,遵義(じゅんぎ)会議で態勢を整えてのち,雲南をへて四川で徐向前(じょこうぜん),張国燾(ちょうこくとう)の率いる第四方面軍と合流した。しかし毛沢東と張国燾の意見が対立,張は軍をさいて四川,西康の一帯に1年滞留した。毛沢東の率いる部隊は35年10月陝北に到着した。これより先,賀竜(がりゅう)の率いる第二方面軍が張の滞留部隊と合流し,両軍は移動して36年10月甘粛で第一方面軍と合流し,ここに全長征は終わった。長征の中国革命に果たした役割はきわめて大きい。
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