武器(読み)ぶき(英語表記)arms
weapon

精選版 日本国語大辞典 「武器」の意味・読み・例文・類語

ぶ‐き【武器】

〘名〙
① 戦場や軍陣で使用する種々の道具や器具。特に、敵を殺傷したり、身を護ったりするために用いる兵器や武具。〔書言字考節用集(1717)〕 〔後漢書‐仲長統伝〕
② 武芸に秀で、戦いに関する才能があること。また、その人。
※吾妻鏡‐文治二年(1186)四月三〇日「頼朝適禀武器之家、雖軍旅之功
③ 角や牙・爪など、動物が闘う時に利用する体の一部や、人が危険を免れたり、有利な状況を作り出したりする、持ち前の才能、技術、性質などをいう。
※国会論(1888)〈中江兆民〉「此等の武器(ブキ)が有ればこそ急進漸進の両軍が国会の戦場にて雌雄を決することも得るべし」

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デジタル大辞泉 「武器」の意味・読み・例文・類語

ぶ‐き【武器】

戦いに用いる種々の道具や器具。刀や銃などの、敵を攻撃したり自分を守ったりするための兵器や武具。
何かをするための有力な手段となるもの。「弁舌を武器にする」
[類語]兵器核兵器

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改訂新版 世界大百科事典 「武器」の意味・わかりやすい解説

武器 (ぶき)
arms
weapon

戦闘に用いられる器具のうち,攻撃用のもの,およびその補助となるものをいう。防御用のものは武具と呼び,区別されるが,両者をふくめて武器と称することも多い。歴史的にみると,武器は三~四つの段階を経て発展してきた。最も初期の段階では,武器は石や動物の骨,木でつくられた。そこに金属器が登場する。青銅製,とくに鉄製武器の使用によって,殺傷力,耐久性は飛躍的に向上した。そのつぎの段階は,火薬の発明によってもたらされた。それまでにも,弓矢,吹矢や投げ槍などの〈飛道具〉があったが,銃砲はそれらの性能をはるかにしのぐ威力を発揮した。

 武器の歴史のうえでもう一つ重要なのは,運搬手段の進歩である。徒歩の段階から,まず騎馬が導入され,戦車chariotが登場する。そこではともに馬が主役を演じたが,やがて内燃機関の発明によって武器の移動は高速化され,また武器自体の大型化をもたらす。そして,ロケットエンジンと核兵器の出現によって,地球上だけでなく,宇宙までも戦場と化す条件が生まれ,武器は人類全体の生存をも脅かす危険な存在となっている。しかし,これらの一連の武器のうち,近代的なものは通常〈兵器〉と呼んで区別されるので,詳細はその項目にゆずることとし,ここでは銃砲の登場の前後までに焦点を据えて概観する。

人類史の初期の段階では,河原の礫(れき)や原野に転がる獣骨がそのまま武器として用いられたと思われる。やがてそれが加工されて,いっそう武器としての条件をととのえていくが,この時期の狩猟具と武器の区別は困難である。むしろ狩猟具がそのまま武器として使用されたと考えるべきであろう。長い棒の先端をとがらせた木製の〈やり〉は,すでに旧石器時代前期から知られている。後期になると石槍とともに石鏃(せきぞく)も登場するが,当時の武器の主役は手で突く槍(穂先が石製)か投げ槍であり,弓矢の使用が盛んになるのは中石器時代以降である。

 新石器時代に入り,農耕・牧畜文化が発展するにつれて,武器は狩猟具から離れ,しだいに武器そのものとしての性格を明らかにしていく。石製の闘斧(とうふ)が現れるのも,この時代であった。つづいて文化の先進地域であったオリエントがまず青銅器時代に入る。それは前3000年ころとされており,やがてこの新しい文化の波はヨーロッパにも押しよせて,短刀や斧,槍などの利器類を中心とする銅器,青銅器が製作される。この点は,東アジアの青銅器文化が祭祀用具を中心としていたのと,際だった違いを見せている。オリエントやヨーロッパで,青銅器が最も活発につくられるのは,鉄器時代の初期であるが,このころまでに武器類にも種々の改良が加えられ,剣の主力は短剣から長剣へと変化し,また斧類がめざましい発達をとげている。時代はやや下るが,スキタイ族は三翼鏃を創出した。この鏃をつけた矢は,それまでの両翼鏃をつけた矢よりもはるかに直進性をもち,命中精度も貫通力も高いといわれる。遊牧民であるスキタイ族が得意とし,周辺の諸民族から恐れられた騎射の戦法も,この三翼鏃と轡(くつわ)の使用によって可能となったものと考えられる。

 しかし,武器の素材としては,鉄は青銅より数等も上であった。現在知られている鉄器のうち最も古いものは,前5000年ころという年代が与えられている。鉄を得るには,銅の場合より500℃も高い1530℃以上の高温を出す特別の技術を必要とした。そのうえ鋳鉄は利器にはあまり向いていない。したがって鉄製の武器が多くつくられるようになるのは前1500年ころ,アナトリアで浸炭法によって鍛鉄を鋼にかえる技術が開発されてからであった。ヒッタイトは前15世紀以降,オリエントの四大国の一つといわれるほどの王国を築いたが,その原動力となったのは,この製鋼技術であった。それだけにヒッタイトは,この技術を極秘の扱いとしたため,オリエントが鉄器時代に入るのはヒッタイト王国の滅亡後であり,ヨーロッパがその仲間入りをするのは,はるかに遅れてハルシュタット文化のC,D期以降,すなわち前700年ころ以降であった。
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武器は打撃,斬撃,刺突など手から離さずに用いるものと,手から離すことによって効果を発揮する飛道具に区分できる。その中間の位置を占めるのが古代の槍であるが,これも手で突くよりも投擲(とうてき)するものと考えられていた。すでに《イーリアス》の中でも英雄たちは投げたり突いたり両様に使っている。もっとも,実際の戦闘では手近な物を武器に利用することも多かったはずで,例えば英雄アイアスは〈戦っている人々の脚下にいくつも転がっていた〉石塊を取り上げてヘクトルの胸に打ちつけている(《イーリアス》)。また武器といえば金属製を連想しがちだが,歴史時代に入って後もさまざまの武器が用いられたので,例えばアテナイの僭主ペイシストラトスは一隊の棍棒兵に護衛させている。しかし,古代の代表的な武器は槍と剣で,特にローマ人の場合,槍pilumは民族的武器であったといってよい。当初ローマ騎兵は槍を携えるのみであった。軍団兵もまず槍を投げ,次いで剣をもって白兵戦を敢行した。投擲用の槍は相対的に短い。マケドニア兵が導入した長槍は,密集歩兵戦列が槍ぶすまを作るためのもので,別系統の槍である。古代の剣は両刃で比較的短かったが,スキピオのころからローマ軍団兵は重量のあるイベリア式長剣を採用する。鍛鉄(たんてつ)技術の進歩によって,刺突のみならず斬撃にも適した鋭利な刃が得られるようになったためである。帝政期軍団の制式武器は槍と剣であったが,戦斧(闘斧)で武装した補助部隊もいた。弓矢の登場は非常に古い。

 飛道具の領域では,V.G.チャイルドやM.コルフマンの研究以来,石弾ないし投石具が注目されている。フィリスティア(ペリシテ)人の将を倒したダビデの投石具がどの程度の段階のものであったかは定かでないが,一連の精巧な正規の武器として投弾具,そして高度に訓練された投石兵の存在が改めて指摘されている。ニネベ出土の合戦図浮彫(前7世紀)では弓隊の後方に投石隊が配置されていて,矢よりも射程が長かったことを示している。クセノフォンはクナクサの会戦(前401)に関連してロードス島の投石隊の優秀さを強調した(《アナバシス》)。投石具には杖型と紐型の2系統があった。石弾もありあわせのものを利用するのでなく,あらかじめ準備調製されたものを用いた。

ゲルマン系の武器は,ローマの軍団と異なり,規格化されていない。刀槍を用いたのはむろんだが,槌や斧が比較的大きな比重を占めた。トール神のシンボルである鉄槌は雷撃のシンボルと解されているが,工具でなく武器としての槌であると思われる。鐙(あぶみ),次いで蹄鉄の普及については問題が多いが,この地域では前者は8世紀,後者は10世紀のこととされる。これら金属馬具によって馬匹の機動力が飛躍的に向上した結果,騎馬戦が決戦の方法となり,これに伴って武器も変化して大型の槍と強固な盾が出現する。重装騎兵の衝突戦の優位が決定的に立証されたのは,おそらくノルマン・コンクエスト(1066)である。この征戦を絵巻物風に描出した《バイユータピスリー》(別名《マティルダの綴織》。11世紀末製作)中のヘースティングズの合戦の場面では,イギリス勢はほとんどが歩兵であるのに対し,ノルマン勢は騎兵が主力を占めている。またイギリス兵には戦斧を手にする者が多いのに対し,馬上のノルマン兵は槍を振るっている。それも柄の中ほど,あるいは石突きに近いあたりを握る者が多い。かつて槍を投げたころには穂先に近い所を握ったのだから,明らかに槍の用法が変わったのである。これよりのち,クールトレー(別名コルトリーク)の合戦(1302)でフランドル都市連合軍の歩兵隊がフランス騎士軍を撃破するまでの2世紀半が重装騎兵戦の黄金時代である。テンプル騎士団が団員に支給する装備一式の表は,おそらくもっとも完全な騎士用武器を示すものであろう。すなわち,鎖帷子(くさりかたびら),鎖靴下,冑(兜),剣,槍,盾,棍棒,短剣,肩当,鉄靴,軍衣,下着,ズボン,靴下,帯,外套,毛皮の17品目だが,このうち槍と剣がおよそ8kg,兜と鎖帷子と盾だけで25kgを超えるから,明らかに防御の武器に重点がかかっている。

騎士戦華やかな時代にも,歩兵が廃絶したわけではない。それどころか,補助兵力として不可欠だったほかに,攻城戦や籠城戦では決定的な役割を演じた。飛道具は歩兵に特徴的な武器である。弓はイチイ材に牛の腱を巻いて弾性を強化し,弦はヤギの革をより合わせてつくるのが普通であった。12世紀から普及した(ど)は簡単な装置で弦を引く力を強めたもので,弓と直角に太い射軸を取り付けた形状からクロスボウcross-bow(〈十字弓〉の意)とも呼ばれた。弓を水平に構え,引金を外せば矢は高速で射出される。梃子(てこ)や歯車を採用して巻上げ装置が改良されると長さ1.5mに達する長弩が出現する。貫通力と命中精度がきわめて高いので,しばしばローマ法王庁が禁止を命令している。百年戦争中,幾度かの合戦でイギリスの長弓隊が活躍したことはあまりにも有名だが,長弓(ロングボウ)は威力の点で弩に及ばないが,利点は射出頻度にあった。カタプルタcatapultaあるいはバリスタballistaと呼ばれる攻城用大型投石機は,古代に引き続いて中世でも使用されているが,専門の操作員を必要としたらしい。13世紀,南フランスのモンセギュール山砦を攻めあぐねた国王軍は投石専門職を招いて巨岩を撃ちかけたと伝えられる。殺傷用に利用する場合もあったらしく,アルビジョア十字軍の首領シモン・ド・モンフォールはトゥールーズ攻囲中,城壁から撃ち出した岩塊に頭を砕かれて即死している。

 クールトレー以後,歩兵の優位がしだいに目だってくるが,徒歩で騎兵に対抗するための武器が長い柄の矛(ほこ)であって,穂先には鉄鉤や斧が組み合わされている場合もあった。ただし歩兵の弱点は密集隊形が崩れたときに露呈するので,移動中を騎兵に襲撃されれば例外なく潰滅的打撃を受けている。密集陣を組んでいても騎兵の突撃に耐えることは心理的にけっして容易なことではなかったらしい。これは歩兵だけでは先制攻撃の能力がないことを意味するが,これを解決するために騎乗して移動し下馬して戦闘する方法が考案される。フランスの勅令中隊(コンパニー・ドルドナンス。1445年設立)は重甲騎兵1名に弓兵2ないし3名,サーベル兵1名,徒兵2ないし3名を配した槍隊(ランス)を単位として組み立てられていた。全員騎乗しているが戦場では弓兵は下馬して弓隊を編成する。諸種の武器の長所を組み合わせる意図がうかがわれる。

徐々に,しかし決定的に,武器体系に変革をもたらしたのは,いうまでもなく火器の登場である。火薬の発明には伝説がつきまとっている。東洋人あるいはイスラム教徒の発明とする伝説が広く行われ,硝石はセル・シノア(中国の塩)あるいはネージュ・シノアーズ(中国の雪)と呼ばれた。イスラム世界を介して東方から伝来した事実を踏まえてはいるが,この説が根を下ろしたのは火薬の神秘的な破壊力の発明をキリスト教徒に帰することに抵抗を覚えたからにほかならない。別系統の伝説にはドイツの錬金術師の発明とするものがある。はてはその名もフライブルクの僧ベルトルド・デア・シュワルツBerthold der Schwarzeということになる(デア・シュワルツは〈悪魔の〉の意)。実際は急速に実用化されながら火器に対する違和感が永く残ったためで,砲を〈悪魔の武器〉と呼んでいる例があるし,捕虜となった砲手は惨殺されることが多かったという。現存する最古の黒色火薬処方はR.ベーコンのもので(1267ごろ),それには硝石41.2,硫黄29.4,木炭末29.4の配合比が示されている。1400年ごろの処方例では71.0,12.9,16.1と現在のそれに酷似したものがあるから,火薬の製法は急速に発達したのである。比率だけでなく原料の純度や微細化,さらに輸送中の動揺による分離を避けるための顆粒化などくふうがこらされる。

 オックスフォード大学所蔵の一写本(1326ごろ)の挿絵に,台架の上に横たえた深目の壺の胴に,兵士が火を近づける図がある。壺の口からは大型の矢が先端をのぞかせている。明らかに火薬による発射装置であるが,実物の写生なのか机上の考案なのか定かでない。同じころフィレンツェの記録にカノン(砲,原義は管)の語が現れる。クレシーの合戦(1346)でイギリス軍が砲を用いたと伝える年代記があるが,効果については何ひとつ伝えられていない。しかし,その翌年にわたるカレー包囲戦には砲10門と火薬および鉛丸がイギリスから積み出されている。このようなことからみて,砲はだいたいのところ,14世紀20年代が試用段階,40年代から実用段階に入ったとみてよいであろう。そして急速に威力を増しつつ普及するのが15世紀初頭である。注意すべきことは,火薬がまず大砲に応用されたのであって銃の発明ははるかに遅れることである。これは巨大化によって威力を増幅できると単純に考えられたほかに,砲は何よりも攻城機械の一種として利用されたからである。砲や砲隊を指すアーティラリartilleryという語も,13世紀以前にあっては攻城器具一式を意味した。15世紀前半は巨砲の黄金時代で,重さ1万ポンドを越えるものすら鋳造されたという。1452年ブルゴーニュ公フィリップが砲1門をモンスからリールまで輸送した時,沿道のすべての橋に補強工事を施さねばならなかった。当時の砲は船や鐘と同じく,1門ごとに名が与えられ,いわば擬人化されていた。

 15世紀半ばから巨砲が姿を消し,目的別に大小の口径のものがつくられるようになる。砲車の発明もそのころであった。これは砲の殺傷効果が改めて認識されたことを意味するもので,やがてその延長線上に小銃が登場する。15世紀末,シャルル8世の砲隊は150門を常備し,その維持費は国王軍事費総額の8%を占めた。これは当時西欧最大の火力である。16世紀の20年代,カール5世は砲の口径の規格統一に先鞭をつけ,同じ60年代フランス王軍の弓兵が銃兵に置きかえられた。ここまでくれば,武器というより,兵器と呼ぶにふさわしい。
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古代中国で青銅製の武器として主流を占めたのは戈(か)と戟(げき)であった。は先端が三つに分かれており,一つが木製の柄に固定する部分で,あとの二つが鋭利になっていた。柄の先端に取り付けて,敵の首などに引っかけて前に引き倒したり,切りおとしたりした。は戈に似た武器で,戈に突き刺す機能をつけ加えたものと考えられる。戈,戟が,前漢中期の武器がすっかり鉄製になってしまう時期より前,つまり青銅製武器の時代の中心的な存在であったのは,当時の戦争の形式による。少なくとも戦国時代よりも前のころは,貴族や豪族のような上流社会の構成員が戦士として馬で引かせる戦車に乗って戦場で活躍し,おそらく一般庶民らによって構成される大多数の兵士は歩兵であった。ところが戦争の規模が大きくない古い時代にあっては,この戦車に乗って戦う貴族らの戦闘が中心にあった。戦車は一人乗りの小さなもので,馬を操りながら武器を手に戦うのであるから,片手で操作できる武器でなければならない。戈は80~90cmくらいの柄がついていたが,これくらいが片手で振り回すのに手ごろであるし,しかもかなり速度をもつ戦車の上では,戈や戟のようなものが武器として有効であった。こうしたことから,青銅製武器の主流を占めたのである。

 矛(鉾)(ほこ)はおそらく古代中国での最も長い,相手を刺すことを目的とした武器で,槍の古い名である。青銅製の鋭利な矛先に木の柄を差し込んで使い,一説に全長4m以上であったという。これほど長いものは,どうしても両手で操作しなければならないから,あるいは歩兵が使用したものか,戦車に載せておき,戦車が停止したり戦車から降りたりしたときに戦士が使ったものであろう。斧(ふ)は〈おの〉で,基本的に長方形をした青銅の一辺を鋭利な刃にし,反対側を厚くして木の柄に固定し,ときに袋状になっていて,ここに木を差し込んで武器とした。このとき,柄と刃が同一方向になるのが斧で,柄と刃が直角方向になるのが斤(きん)である。ただ,斧も斤も,武器として使用されたもののほか,工具や農具として使われたものもあった。

 (えつ)は〈まさかり〉で,同じ形の小型のものが斧,大型のものが鉞と呼ばれた。鉞の中には高さ34cm,重さ6kg近いものがあって,実際これを戦場で振り回して闘うことは不可能であり,文献によって知られるように斬首や腰斬など刑罰の執行に使用されたものである。鉞をやや小型化して戦闘での殺傷用として使用したものに戚(せき)がある。しかし,戚も鉞と同じように,やがて装飾がほどこされて殺傷のための武器としての実用性を失い,権威の象徴となっていった。

青銅器が主として武器の素材として使用された殷・周時代までに,刀(とう)と称せられたものは,短刀や小刀と呼ばれるべきものであって,全長30cmくらいのものが多かった。これらは戦闘での武器としても使われたが,同様に料理など日常生活に利用されたものも多い。刀の一種として,刃のある側を内にして少し曲がった形をした内彎刀や,全長15~20cmほどのナイフに相当する小刀があったし,そのほかにも切っ先が刀の脊の方向に反り返った刀があり,これは刀や内彎刀よりやや大型で40~50cmくらいの長さをもつものもあった。刀に属するすべてのものは,刀身の片側一方が鋭利になっていて,相手や対象物を切ることを目的とした武器であったが,剣は刀身の両側が鋭利になっており,先端が尖鋭で,相手などを切ることよりも突き刺すことを主たる目的としたものであった。剣の長さは50cmくらいのものから,長くなると80cm,90cmをこすものもあった。青銅製の刀が短いものであったから,おそらく青銅の剣の方が実用的であって,戦闘中や何らかの形態で小人数の相手と立ち向かうとき,相手に対して,ただ突き進めるだけで目的が達成できる,つまり小さな動作で早い速度が得られるということは,実戦的な攻撃の効果を挙げることが容易であったといえる。この剣の性質をもたせて,より小型化したものが匕首(ひしゆ)すなわち〈あいくち〉で,隠し持つことができるので暗殺などの目的にかなっていた(刀剣)。

 殳(しゆ)は木製の棍棒で,竹を割ってそれを麻布でつつみ,さらに糸を巻いた上に漆を塗ったものが多かった。別に堅い木を使うこともあった。棍棒は先端の方がやや曲がっているものが多く,全長1.5m~1.7mくらいで,棒の直径が細い所で6cm,太いところは12cmもあって,兵士が打ち下ろして一撃のもとに相手を殺傷する効果をもたせた。殳は竹または木が素材であり,容易に入手できるから,兵士などに広く使用されたと考えられる。この他,古代からの武器には弓や弩と矢があるが,〈弓矢〉と〈〉の項を参照されたい。殷から春秋のころにかけては,貴族らが戦車にのって勝敗を短時間に決する小規模な戦争であったが,戦国時代以降は大規模な戦争になり,貴族出身の戦士だけでは不十分で,戦闘に慣れない一般の人々をもかり出すようになった。ために,軍は部隊などに編成され,部隊ごとに戈や弓や剣や矛を独特の武器とするようになった。

戦国時代から秦・漢にかけて鉄製武器が進出するようになり,漢代中期には鉄製武器が主流を占めるようになった。武器製造の材料が青銅から鉄へ移行したことは,武器がよりいっそう鋭利になったこと,武器の目的にかなうように形を変化させ,しかも強さを失わなかったこと,原料が中国全体に大量にあったから製品も膨大な量になったこと,などの結果をもたらした。

 漢代では戈や戟,とりわけ戟が重視され,全長4m以上に達するものが多かった。その他では斧も使われた。短兵つまり短い武器としては刀と剣が使われ,これは全長が長くなった。そのため匕首を携帯する必要性が増し,適当な距離があれば,刀や剣で闘い,至近距離では匕首で攻撃した。このころから大規模な戦闘が普通になって,一般人から集められた兵士が密集歩兵部隊を形成したから,戈や戟が長くなり部隊どうしが戦闘に入るとそこから長い武器を突き出して一瞬でも早く相手に損傷を負わせることをねらうようになった。この部隊が遠く離れていてしだいに接近する際に有効であるのが弓や弩で,弓弩の部隊が矢を乱射して戦闘が始まるのが普通であった。

 晋代になると戈が衰え,戟と矛が一時隆盛になったが,やがて戦闘に不便な矛を改良した槍を使うようになり,これが後世まで伝えられた。戟も晋代から実用より儀仗用になっていった。唐代になると戈はすっかり姿を消し,斧も見られず,鉄製の戟が儀仗用に残った。代わって槍が全盛になると同時に,刀に長い柄をつけた長刀ともいうべきものが武器として台頭してきた。短兵としては刀と剣とが並用された。とくに剣は後世の原型となったのであるが,剣は実用の武器としてより,装飾をほどこして将校らの地位を示すものになっていった。弓や弩はますます戦闘での必要性が高まり,軍隊の中にも弩や弓だけを専門に操る部隊が数多くあった。なお,唐までは銅製の兵器が鉄製にまじって存在したが,唐を最後に実用の銅製武器はまったくなくなった。

宋代になると,短兵としては刀と剣とが重んぜられたが,前代に比べて簡単なつくりになった。今一つ宋代で盛んに使われた短兵は鉄製の棒で,棒の端にいろいろ殺傷のためのくふうをこらしており,白兵戦の混乱の中で使用されたものであろう。これ以外にも雑多な武器があったが,宋代の《武経総要》という軍事方面のことを書き記した書物に詳しい。長兵の主体は槍が第一で全長2mを超す長さのものであり,次いで唐代から盛んにみられるようになった長刀つまり長い柄をつけた刀で,これも槍くらいの長さをもっていた。この時代になって,いっそう飛道具の重要性が増し,弓や弩は軍隊の主要兵器であった。軍隊で最も精強な兵器は大弩と呼ばれるもので弓を二つあるいは三つ使用してそれらの力を合わせて強力な兵器にした。矢も特別なものを使うため一発で10人,大きいのでは数十人を射抜けるという爆発力を備えていた。こうした武器の発達は,宋代の軍隊が歩兵を中心にして形成され,しばしば異民族の騎兵の機動力に悩まされた結果こうした強力な兵器を開発したのである。このほか,飛道具の改良型として,火箭と呼ばれる,矢の先に火を燃やして射かけ,相手側の陣営,倉庫,舟などを燃やすものがあった。さらに,文献に火砲という名が見えるが,実物が現存しない。おそらく宋代ではすでに火薬が使用されているので,火薬を玉状にして紙などでつつんで打上げ花火の玉のようにしたものを相手側に打ちこみ,この火薬が敵陣で発火したり破裂するようくふうされていたらしい。

元代ではモンゴル騎兵の伝統があって,中国歴代の王朝とはようすがことなり,騎兵が主,歩兵が従という軍隊の状態であったから,弓弩などの飛道具は騎兵歩兵共に精通していたが,長兵はそれほど重んじられなかった。これは馬上の騎兵の武器として不便であったからである。ただ,例外的に中国歴代のものより大変長い槍を操る部隊が一部にあった。長兵がほとんど使われなかったのにくらべて,短兵では剣と斧が幅をきかせ,次いで元代で盛行したのは両端に鋭利な鉄をつけた標槍と呼ばれる投げ槍のようなもので,遠くから相手に投げつけて身体に突き刺し殺傷するものであって,長いものと短いものとの2種類があった。さらに刀が使われ,さらに殺傷しやすいように細工した重量のあるものを短い柄の先につけて振り回し,相手を打ちすえる錘といわれるものも使われた。モンゴル軍の騎兵・歩兵はともに多くの矢箭を携行していて,特大の弓でこれを射かけたから,敵軍と遭遇するとまず矢箭を雨あられのごとく乱射し,少し接近すると短い標槍を投げつけ,さらに近づくと長い標槍を操って相手の刺殺をねらい,さらに接近して白兵戦になると剣で刺し,斧で切り倒すために短兵を駆使した。元の飛道具はこれまでの中国にあったものにくらべて特別に大きな弓で,これによってこれまた大きな矢を乱射した。この弓矢と騎馬による正確な射撃がモンゴルの大帝国をつくりあげたといわれている。ほかに火器として,花砲という大音響を発するもので,これを敵陣に打ちこんで軍馬や兵士を混乱におとしいれるものがあり,ついで火槍という燧(ひうち)石を使って火薬に点火し,その爆発力によって砲弾を飛ばす初期の鉄砲があり,さらにポルトガル人がインドに運んできたといわれる大砲を模倣したものがあった。

明代の武器は日本から直接輸入したものや,日本製武器を参考にして作られたものもある。長兵では伝統的な槍のほか,古い矛を復活させたようなものもあったし,あるいは長い柄の先にさまざまな形の鋭利な鉄をつけたものがあった。また日本製の薙刀(なぎなた)や模倣した薙刀も使われた。刀の中でも長刀と呼ばれる1.5m以上の長刀や腰刀があった。短兵では,日本製の刀が大幅に使われ,その模倣品も多かった。剣は以前からうけつがれて将校などの地位の象徴として使われる程度であったが,この剣にかわって刀が地位の象徴として携帯されるようになっていった。飛道具としては弓弩が前代から引きつづいて大型化したものが使われることが多く,弓弩の大型化にともなって弓箭も2m以上の長さに達するようになった。火器としてはポルトガルから伝来した大砲が自力で製作されて使用されるようになったほか,鉄砲や短銃が使われていた。銃砲においては発火装置が重要なものであるが,このころの銃砲の発火発射装置はすべて火縄銃方式のものであった。また爆裂弾として地雷や水雷も使われた。

 清代でも,伝統的な槍や刀剣などが使用されたが,武器としての重点は飛道具におかれた。もちろん弓弩もあったが,技術的に進歩はみられず,かえって隠し武器として使われる暗器と呼ばれるものが発展した。これは暗やみなどで使用され,一見したところは普通の道具であったり生活用具であったから,不意を襲ったり暗殺したりするときに有効であったし,また一般人はもちろん,武術家なども創意工夫をこらして新しいものを開発した。清代の飛道具の主役はやはり銃砲で,鳥銃と呼ばれる前代以来の火縄銃が使用されていた。この鳥銃の長さはおよそ1.8mくらいのものであった。大砲も前代以来のものを受けついでいたが,これが欧米諸国の中国進出に対して,すべて旧式で役に立たなかったので,清末の光緒年間(1875-1908)ころから,西洋の新式銃砲の輸入に積極的に乗り出し,やがて洋務運動を足がかりに清朝内部でも製造するようになった。このとき輸入され,製造の手本にされたのが銃ではモーゼル銃とマンリシャー銃,大砲はクルップ砲であった。
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日本では,古くは武器類を〈つはもの〉と呼んでいた。平安時代末の辞書《色葉字類抄》でも〈ツハモノ 兵仗剣戟也,物名也〉としている。漢字では軍器,武器,兵器,武具などの字を当てており,近世に至るまで,その用法や意味する範囲は一定していない。しかし,すでに《令義解(りようのぎげ)》や《延喜式》では,征伐に用いるもの,すなわち弓矢や刀類を軍器,兵仗(ひようじよう)とし,〈鼓吹幡鉦〉の類を戎仗(じゆうじよう),戎具として区別する立場もみられる。現在では前者を武器,後者のような陣営内で用いたり,防御に用いたりするものを武具と呼び分けるのが普通である。

日本でも,先史時代の武器は石製,骨角製,木製品が中心で,石槍,石鏃,石剣などの遺品が知られている。木製品で目だつのは弓で,すでに縄文時代早~前期の鳥浜貝塚や晩期の是川遺跡から,弓の出土が報告されている。ともに素木のもののほかに,桜の皮を巻いたもの,漆を塗ったものが含まれており,鳥浜の出土例では枝材ではなく,太い幹材を削って仕上げた弓も発見されている。弥生時代,古墳時代に属する出土品も知られ,東大寺正倉院には奈良時代の弓が伝蔵されている。これら全体に共通する特徴は,すべてが丸木弓の直弓である点で,北アジアの弓が合せ弓,彎弓であるのと対照的である。大きさは,古いものほど完形品がなく,推定値に頼らざるをえないが,鳥浜では129cm強,是川では約160cmという例が報告されており,正倉院のものは190~255cmである。

 古墳時代になると銀,金銅,銅製の弭(ゆはず)金物が出土しており,弓の儀仗化の始まりを示すものであろう。儀仗化は時代をくだるにつれて顕著となり,やがて平安時代の公家のあいだで制度として確立される。日本で合せ弓が登場するのは,10~11世紀ころと推定されている。

中国から朝鮮を経て,日本に青銅器が渡来するのは弥生時代で,まず銅剣,銅鉾,銅戈が登場する。しかし今日まで残っているものの大部分は,その形状からみて,武器というより祭器・祭祀用具と考えられるものが多い。そのうえ,利器の材料として青銅よりはるかにすぐれた特性をもつ鉄が比較的早くから知られるようになったため,日本の武器は,石器,骨角器から一足飛びに鉄製のものに変わっていった(青銅器)。

 すなわち,鉄器は弥生時代の前期から手斧や刀子(とうす)が現れる。これらは大陸からの輸入品であるが,中期にはもう国内で斧や手斧,刀子などの製作が始まっている。古墳時代になると,利器類はほとんどが鉄製となるが,武器では古墳時代の前期には鉄刀と鉄剣が共存していた。ところが中期以降になると,鉄刀が鉄剣を圧倒するようになる。刀は片刃のもの,剣は両刃のものを指すが,この時期の刀剣は,柄頭(つかがしら)や鐔(つば),鞘(さや)などに精巧な装飾があるのが大きな特徴である。東大寺正倉院には飛鳥・奈良時代の刀剣が収存されており,その外装の加飾は外来の素材や技法をも用いて,さらに高度のものとなっている。

 刀のうちで刀身の長いものを大刀(たち)とか太刀(たち)と呼ぶが,このころまでのものは,ほとんどが直刀である。つまり大陸から渡来したままの形が踏襲されていたわけである。ところが,平安時代の中期にはこれが〈反(そ)り〉のある形式に一変する。大刀は本来,相手を斬り倒すための武器であり,この形はその目的にいっそう適合した形にほかならなかった。そして,この時期は,武士という新しい階級が登場してくる時期にあたり,また独自の鍛法と焼入れ法によって日本刀をつくる技術が一応の完成をみたのも,この時期であった。

 以後長いあいだ,日本の武器の中心をなしたのは太刀(日本刀)と弓矢であったが,平安時代の末に薙刀(なぎなた)が出現する。これは鎌倉時代以降に盛んに用いられ,江戸時代には女子用の武器として注目された。また南北朝時代の終りころには鉾にかわってが現れ,室町時代に普及した。

ちょうどそのころ,一隻のポルトガル船が種子島に漂着して,日本に鉄砲を伝える。1543年(天文12)のことであった。伝えられたのは先込め式の火縄銃で,有効射程距離は50~100mくらいのものであったが,以後,諸大名は南蛮船から鉄砲と火薬を買い求めようと競うようになる。しかし,鉄砲の威力を最もよく知っていたのは織田信長であり,彼は1560年(永禄3)の桶狭間(おけはざま)の戦にすでに鉄砲を使用している。とくに75年(天正3)の長篠(ながしの)の戦では,3000人の鉄砲隊を編成し,それを1000人ずつ3列に並べて,交互に休みなく発射させたと《甲陽軍鑑》は伝えている。

 ここで使用された鉄砲の大半は,日本で製造されたものであった。信長が育成させた近江国国友村(国友)には,最盛時の1615年(元和1)に73軒の鉄砲鍛冶があり,500人以上の鉄匠がいたという。渡来品という見本があったとはいえ,当時の技術水準では,とくに銃身の製造に大きな困難が伴ったが,これらの困難を克服できたのも,鉄砲鍛冶たちが日本刀づくりで培った鍛造と焼入れの技術を身につけていたからであった。
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形態と機能からみて,武器は狩猟具から発展したものと考えられる。狩猟具と武器の区別がない社会も多くあることも,これを裏づけるといえよう。しかし武器の発達の契機は,戦闘と武器がその社会のなかでどのような役割をもつかという点にかかわる。個人間あるいは少人数の間の戦闘が行われるだけで,戦闘を専門とする集団がないような社会では,狩猟具がときに武器となる。しかし,戦闘が組織的な戦争となり,戦士集団ができ,武勲が社会的地位の向上に結びつくようになると,武器の洗練が始まる。その洗練は技術の進歩と関連しており,文明社会の技術発達が武器の改良や発明によって促進されてきた例は多い。

 未開社会における武器はすべて人力の延長としてあり,槍,棍棒,刀,弓矢,弩(いしゆみ),吹矢,投石具が一般的で,防御用として盾,鎧,冑,胴衣,胸当,腕や脛の当てものなどが作られる場合もある。攻撃用と防御用の別は状況によって入れかわり,ライオンから身を守る槍,打撃を防ぐ盾が,一転して相手を倒す武器にもなる。実用性や効率が武器の選択を決定するともいえない。東アフリカの牧畜民の武器は槍だけで,アラブとの長い接触があっても刀剣や弓矢は採り入れなかった。インカ帝国では投げ槍や投石具(オンダ)を用い,弓矢はアマゾン川上流の住民を傭兵にしてこれに使わせた。弩は東南アジア大陸部にひろく分布しても,島嶼(とうしよ)部には普及しない。刀剣は金属が実用化していないと普及しにくく,その分布は旧大陸の古代文明社会とその隣接地域に限られる。石製の刀はナイフとして,ときに武器としても用いられるが,むしろ儀礼用(メキシコのアステカ族など)か,日常の生活用具としての機能が優先する。盾は新旧両大陸からオセアニアに広い分布を示すが,鎧,冑などの防具はユーラシアの文明社会にほぼ限定される。特殊な例外はミクロネシアのギルバート諸島にみられる冑や胴衣,当てものである。これらはヤシの繊維を部厚く織り,サメの歯を縫いつけたりしたものであるが,重くて敏捷な動作の妨げとなり,身軽な助太刀をそばに置く必要があった。

 武器の洗練が著しいのは,東南アジア島嶼部からオセアニアの島々である。インドネシアでは,長短の槍とクリスという短剣が主たる武器で,まれに投石紐,弓矢,吹矢が用いられた。このうち短剣は高い象徴的価値を有し,男は少なくとも1本を携帯し,高位の者は2本ないし4本を所持した。直刃のものと蛇のようにくねくねした刃のものがあり,実用にも供するが,社会的地位の象徴としての意味が大きい。また,刀鍛冶としての専門の職人がいた。ニュージーランドのマオリ族では,槍,杖,短剣,棍棒,ナイフのほかに,投鉤(なげかぎ),投網が用いられた。槍には単純な棒状のものと,先をナイフ状にした短い槍,防柵のあいだから敵を突く4m前後の特殊な長槍があった。また,先端にかえりのあるもの,骨で作った先端がはずれる槍もあった。棍棒には先に石を結びつけたものと,メレという羽子板のような扁平で短いもの(木製か石製)があり,後者は相手のこめかみをねらって水平になぎはらう武器であった。投鉤とは,鉤のついた骨や石を紐につけたもので,石をおもりにして振りまわして投げ,敵の隊列を攪乱した。投網は本来漁網で,敵をこれでからめとり,その後槍や棍棒で仕止めるものであった。象徴的価値の高い武器は,首長のもつトコトコという杖,ティアカという彫刻つきの木剣,一端をとがらせ,他端を斧状にしたテワテワという闘斧であったが,武器全体を丁重に取り扱うならわしがあり,戦いの前には呪文をかけ,所有者と一体視され,中傷や賛美の対象にもなり,料理されたものに近づけることはタブーであった。勇猛な戦士の武器や祖先から伝えられた武器には強力なマナがついて畏敬の対象となった。ハワイ諸島では長短の槍や先端のはずれる槍,石頭をつけた棍棒,長い紐をつけて振りまわす投棍棒,投石紐などのほかに,木製の短剣がある。これにはいくつもの形があり,すべて先をとがらせたもので,柄に孔をあけて紐を通し,それを手首にかけるようになっている。サメの歯をとりつけた短剣や棍棒があるが,そのほかサメの歯をつけたナックルや指輪など特異なものがある。

 インドネシアの短剣,マオリの杖や棍棒,東アフリカの鉄槍は,所有者と一体視されるような面がある。このような慣習は特定の武器に聖性を見いだす考え方を基礎にしている。それは,刀を武士の魂としたかつての日本の考え方と通じるといえる。さらに,西ヨーロッパから日本にまたがって見いだされた神剣や剣崇拝も,鉄や金属という素材との関連が濃厚とはいえ,聖性を武器に与える慣習として考えることができる。
甲冑 →日本刀 →兵器 → →弓矢
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「武器」の意味・わかりやすい解説

武器
ぶき

戦闘に用いる器具の総称。一般には近代兵器出現以前の器具をさす。狩猟用具から人間殺傷用に転用した器具が多い。相手に与える損傷の種類(切るたたく絡ませる)と使用の様態(手に持つ、飛ばす、自動)とにより、9種類に分類できる。このうち、手に持って切る刀剣・槍(やり)・斧(おの)、飛ばせて切る(弓)矢、手に持ってたたく棍棒(こんぼう)の三つが主要であった。飛ばせて切る投槍・銛(もり)の類は手にもって切る用具の変形として発達した。民族誌的には、吹き矢(アジア・アメリカの湿潤熱帯)、飛ばせてたたくブーメラン(オーストラリア)、飛ばせて絡ませるボーラ(南アメリカ草原地帯)が注目される。毒矢、投槍(とうそう)器などを発達させた民族もある。このほかの種類(手に持って絡ませる網、自動的に切る・たたく・絡ませる各種のわな、飛ばせて絡ませる投縄(なげなわ))の武器を発達させた民族は少ない。

 各種の武器のうち人類史上もっとも早く出現したのは槍類で、前期旧石器時代から木製の槍が知られ、やがて石製尖頭(せんとう)器(槍先)をつけ、さらに後期旧石器時代には投槍器が出現した。メラネシアを除くオセアニア全域では、弓矢の使用が少なく、とくにオーストラリア先住民には弓矢がなく、ほぼ投槍器出現段階にとどまった。旧・新石器時代移行期には弓矢が出現した。この時期までの各種用具は主として狩猟用で、戦闘に用いるのはまれだったとみられる。狩猟用具を武器に転用する伝統が確立したのは、地域により戦闘が多発した新石器時代からであり、この段階から地域により手に持って切る刀剣と、手に持ってたたく棍棒(こんぼう)が発達しはじめた。金属器が出現すると刀剣類が長大化し、金属製尖頭器をつけた飛ばす武器が比較的大量に供給された。殺傷能力の向上に対し、防御用の金属製装甲・盾類が発明され、本格的な武器の文化が成立した。

 これまでに判明している最古の本格的な武器文化の成立は、メソポタミアのシュメール期である。メソポタミアでは都市文化出現以前からの武器群に加えて、紀元前3000年以前に半円形木板を二つあわせた車輪をもつロバの引く戦車が出現し、前2000年紀初頭には馬の引く本格的車輪をもつ戦車に発展した。前1000年紀には城壁破砕器が加わった。馬の引く戦車を含む西アジア型の武器複合は南アジアを含むユーラシアの大陸諸文化に共通の文化要素であり、地域的、時期的な特色が加わった。たとえば、ギリシア・ローマでは剣、盾、槍をもつ重装歩兵が主力であり、投石器の発達が特徴的だった。紀元後14世紀からの銃砲の発達まで、重装歩兵と弩(ど)(いしゆみ)とがヨーロッパの武器複合の特徴だった。13、14世紀のプレート・アーマー(全身を覆う甲冑(かっちゅう))の発達もこの伝統の一部である。紀元前以降のアジアでは、短弓、曲刀装備の鐙(あぶみ)を用いた騎兵が主戦力と考えられた。

 東アジアでは、前2000年紀中葉以降の1000年間に青銅製武器(刀剣、矛(ほこ)、戈(か)、盾、甲冑、戦車)が目だって発達した。鉄の普及によりこの伝統は終わり、一時的に大刀、鳴鏑(なりかぶら)に特別な意味をもたせた武器複合が生じ、紀元後はアジアの他地域でも同様の傾向が生じた。

 日本の武器の伝統は、輸入・国産の武器形青銅製品とその一時的な複合とを出発点として発達したが、ほぼ10世紀ごろまでは、実用性は低く、本格的に発展したのは、竹製の合わせ弓が普及し始めた平安中期以降であった。特徴的な発達がみられたのは刀であり、各時期に名刀工を輩出した。

 14世紀が日本の武器文化の変換点で、それまでの鎧(よろい)・兜(かぶと)を装備した一騎駆けの騎射戦から、しだいに刀・槍・当世具足を装備した集団歩兵戦へと変化した。16世紀には外来の銃砲が武器複合を全面的に変化させ始めたが、江戸幕府による支配の確立により、武器の実用性が消滅したので、この変化は中途で停止した。民俗行事には、技術的に発達した刀剣類に関連する慣行は少なく、『周礼(しゅらい)』起源の追儺(ついな)儀礼に関連する弓神事が多い。

[佐々木明]

原始技術史からみた武器

前述のような武器を人類がどのように獲得したか、その原初に立ち戻って原始技術史の側面から考えてみる。

 武器の起源は非常に古い。それは人類の誕生とともに始まったといってもよい。ただし当初の武器は、のちに人間同士の戦闘で用いたようなものではなく、肉食獣と闘うものであったと考えられる。人類らしい動物は300万~400万年ぐらい以前、アフリカ大陸に出現した。しかし彼らは弱い動物であり、その弱さが武器の起源と深く関係した。

 ホモ・ハビリス(猿人の一種)とよばれる彼らは、すでに直立二足歩行をし、しかも簡単な道具類を日常的に使用して生活していたと考えられる。道具の種類は、木の枝、石、動物の角(つの)や骨などで、一部は加工されていた。ホモ・ハビリスは今日のチンパンジー程度の大きさであったと考えられるが、体型はチンパンジーとは異なっていた。足が手より長く、2本の足だけで歩行した。腕はチンパンジーより細く、短く、力も弱かった。歯並びは今日の人間のように小さな歯にすぎず、犬歯はチンパンジーのような牙(きば)ではなかった。このような身体の構造からみて、動物としての闘う能力が劣ったものであることは容易に想像され、実際にも弱かった。

 闘う能力を、攻撃力と防御力に分けて考えてみる。当時の人類は前述のように攻撃力で肉食獣などに劣っていたが、防御力の点でも同様に劣っていた。走る能力がそれほど優れているわけではなく、皮膚も薄かった。肉食獣などに襲われた場合、ひとたまりもなかったであろう。こうしたことから他の動物などと闘うような状態はできる限り避けたと考えられるが、やむなく闘う場合には自らの弱点を補うものとしての道具を手にして闘ったと思われる。とはいっても肉食獣などに対する闘いは、彼らが最終的に勝利するための闘いではなく、獣から逃げ去るための一時的な闘いであった。そうした身を守るための一時的な闘いに使われた道具――ただの棒切れや石ころにすぎなかったであろう――が、武器としての最初のものであったと思われる。

 一方、当時の人類はノウサギやノネズミなどの小動物を狩猟していたらしい。狩猟の場合にも、棒切れ、石、骨などを道具として使ったと思われる。そしてそれらの狩猟のための道具も長い期間にしだいに改良されていった。

 棒の先を鋭くとがらせたもの(槍(やり)の始まり)は比較的早い時期から使われ始めたと推定される。それと前後して、骨を割った鋭いナイフの類の道具や打製石器もつくられるようになったと考えられる。地域によっては貝殻を利用したナイフの類も存在したとも考えられる。

 そうした時代がどれほど続いたであろうか。やがて人類は火を獲得した。遅くとも数十万年以前のホモ・エレクトゥス(原人)の時代には火を日常的に扱うようになっていた。火は猛獣を避けるための最良の手段、つまり防御用の武器であったと考えられる。しかし、やがて彼らは火を攻撃に使うようになっていった。

 人類は火およびそのほかのさまざまな道具を駆使して、大小さまざまな動物を狩猟する技術を発展させ、ついに地上における最強の動物の一種に変貌(へんぼう)していった。

 その間、道具をより効果的に使うこと、たとえば石や槍、棒を投げる方法もくふう・改良された。旧人(ネアンデルタール人の仲間)の時代には石に紐(ひも)を結び付けて投げるボーラや槍投げの技術、またブーメランのような道具もくふうされ始めたと思われる。火をつくる技術も発見されたかもしれない。槍の先に毒を塗ることも知ったかもしれない。

 新人(クロマニョン人の仲間)の段階になると、狩猟具・狩猟技術はさらに発達し、投石器や投槍(とうそう)器などが出現する。そしてそれらの狩猟具や狩猟技術が、やがて人間同士が闘うための道具、すなわち武器として使われるようになったと考えられる。

[岩城正夫]

『金子常規著『兵器と戦術の世界史』(1979・原書房)』『ダイヤグラムグループ編、田島優一他訳『武器』(1982・マール社)』『岩城正夫著『原始技術論』(1985・新生出版)』

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百科事典マイペディア 「武器」の意味・わかりやすい解説

武器【ぶき】

戦闘に用いる器具。防御用のものは武具と呼ばれ区別されることもある。主として人馬殺傷に用いるものをいうことが多い。石斧(せきふ)などに始まり,,青銅・鉄製の斧(おの),次いで刀剣甲冑(かっちゅう)が使われた。火砲の出現は14世紀であったが,重要性の確立は15世紀以降で,核兵器時代の今日でも武器としての主要な地位を占める。→兵器

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世界大百科事典(旧版)内の武器の言及

【軍団】より

…防人,囚人引率などの史料にみえる職員は軍毅のみである。軍団は1国に1団以上,郡の分布に対応していくつかの団が設定され,徴兵業務機構,武器兵糧集積地として城と呼ばれるところもあった。兵士の武器は自備を原則としたが,同時に集団戦兵器などの武器収公を行った。…

※「武器」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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