日本歴史地名大系 「押野村」の解説 押野村おしのむら 石川県:石川郡野々市町押野村[現在地名]野々市町押野一―七丁目、金沢市押野一―三丁目手取川扇状地扇端北東部に位置し、南は野々市村。富樫(とがし)用水の分流木呂(ころ)川が村の西部を北流する。中世の押野庄の遺称地とされ、集落の東に枝村丸木(まるき)がある。「加賀志徴」は当村などへの往来を押野街道と記し、元禄元年(一六八八)の金沢城下三里内村々道筋覚(改作所旧記)には、押野道筋の末は竹松(たけまつ)村・相川(そうご)村・平木(ひらぎ)村(現松任市)とある。慶長四年(一五九九)の前田利家宛行状(小幡文書)に村名がみえ、知行高二千六六一俵が不破彦三に宛行われている。正保郷帳では高一千三八七石余、田方八一町一反余・畑方一一町三反。 押野村おしのむら 高知県:安芸郡東洋町押野村[現在地名]東洋町野根(のね) 押野中島(なかしま)村の野根川対岸、支流押野川流域と別役(べつちやく)川の下流域にまたがる集落。野根郷に属したが、独立村とされるのは江戸時代後期である。天正一七年(一五八九)の野禰村地検帳では押野を記すが、総地高は葛原(くずはら)と合せて一二町四反二五代三歩とある。のちの押野村本田高から考えて、同地検帳の葛原と押野を合せた地がのちに押野村として独立すると思われる。しかし同地検帳によると葛原は耕地は広いが水田はほとんどなく、下田と切畑ばかり、その四分の三は荒と注記され、一三筆が給地に分与されたほかは散田分とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by