揖西郡
いつさいぐん
播磨国の南西部に位置する。古代の揖保郡がほぼ揖保川を境に東西に分離して成立(→揖保郡)。明治一七年(一八八四)の「地名索引」(内務省地理局編)によると読みは「イッサイ」。東は揖東郡、北は宍粟郡、西は佐用郡・赤穂郡、南は播磨灘に面する。現龍野市と新宮町の西部、揖保川町・御津町の全域と姫路市・相生市のごく一部にあたる。康平二年(一〇五九)七月二〇日の播磨国東大寺領畠注進状(東大寺文書)に「揖西郡揖保郷神戸村」とみえる。ただし飾磨郡は天暦四年(九五〇)には東西に分離しているので(→飾東郡)、揖保郡も同時期に分離した可能性がある。揖保郡と称することもあった(→揖東郡)。
〔中世〕
郡内の庄園には京都新熊野社領浦上庄(現揖保郡)のほか桑原庄(京都最勝光院領)・布施庄(平頼盛領)・小犬丸保(穀倉院領。以上現龍野市)、岩見庄(京都大覚寺領)・室・塩屋御厨(京都上賀茂社領。以上現御津町)などが成立。古代から中世の山陽道が南部を横断し小犬丸宿がある。「峯相記」によれば浦上に南三郎入道が念仏堂の福立寺を建立、同寺は贅美を尽したものであったが延慶(一三〇八―一一)頃禅宗に改宗されたという。流通経済を掌握した土豪南入道の子は浦上誓願といい、正和四年(一三一五)一一月矢野庄(現相生市)別名に乱入した悪党人の一人であった。時宗国阿派および霊山派の開祖国阿は觜崎(現新宮町)の石堂四郎頼茂の子という。播磨守護赤松氏は当初千種川流域の赤松村白旗城(現上郡町)を本拠としたが、揖保川流域を重視して文和元年(一三五二)頃城山(木山)城(現新宮町・龍野市)の築城に着手した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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