揖東郡(読み)いつとうぐん

日本歴史地名大系 「揖東郡」の解説

揖東郡
いつとうぐん

播磨国の南西部に位置する。古代の揖保いぼ郡がほぼ揖保川を境に東西に分離して成立(→揖保郡。明治一七年(一八八四)の「地名索引(内務省地理局編)によると読みは「イットウ」。東は飾西しきさい郡、北は宍粟郡、西は揖西いつさい郡、南は播磨灘に面する。現在の太子たいし町全域、龍野市と新宮しんぐう町の東部、姫路市南西部と家島いえしま町を含む。保延四年(一一三八)一月二三日書写の大般若経巻三一三の奥書(龍門文庫善本書目)に願主は「揖東郡」住人、巻四〇四奥書(同書)には揖東郡浦辺うらべ郷鈴上寺住僧仁厳とみえ、寿永二年(一一八三)一〇月二二日の官宣旨案(高野山文書)に「揖東郡内福井庄」とみえる。ただし飾磨しかま郡は天暦四年(九五〇)には東西に分離しているので(→飾東郡、揖保郡も同時期に分離した可能性がある。建久二年(一一九一)五月一九日の西大寺領注文(西大寺文書)に「揖保郡越部浦上二郷」とあり、揖保郡と称することもあった。また近世には文禄四年(一五九五)八月二一日の豊臣秀吉朱印状(斑鳩寺文書)、貞享二年(一六八五)の徳川綱吉朱印状(同文書)などに揖保郡とあり、東西に分割されてからも揖保郡とも称した。

揖東・揖西両郡の中部以南の郡境はおおむね現在の浦上うらかみ井幹川水路、林田はやしだ川に流入するその分岐水路、流入点以南の林田川および同川合流点以南の揖保川である。北部つまり現新宮町域では栗栖くりす川下流以南が揖東郡に属しており、揖保川が現在より大きく西に蛇行して栗栖川との合流点が今よりかなり北西方であったと思われ、江戸時代揖東郡の岩見いわみ(現太子町)が「こぜが瀬井」の瀬水利権を主張するなどはこれによって理解できる。東西に分れるとき当時の揖保川主流路を境としたとみられる。

〔中世〕

「峯相記」によると、天徳年中(九五七―九六一)揖保郡に剣難の峰(城山)に城を構えて、揖保川東西を自由に往来し、年貢・官物を横領し旅人の通行をも妨害する悪党がいたが、藤将軍文修が内山大夫、栗栖武者所、大市大領大夫、白国武者所、矢田部・石見郡司等の案内で誅罰し、文修は押領使に任じられたという。また小宅おやけ(現龍野市)に万歳長者、揖保庄(現同上)に四コフ長者がいたという。郡域の庄園にはほかに一条家領弘山ひろやま(現揖保郡)大江島おおえしま(摂関家領)福井ふくい(高野山領、神護寺領)林田庄(賀茂別雷神社領)藤三位とうさんみ(京都弘誓院領。以上現姫路市)、小宅庄(京都大覚寺領、同大徳寺領)、大和法隆寺領いかるが(現太子町)越部下こしべしも(冷泉家領)香山こうやま(中原家領、京都泉涌寺領。以上現新宮町)、揖保庄(京都最勝光院領、領家は山科家。現龍野市)などが成立。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報