日本歴史地名大系 「飾東郡」の解説
飾東郡
しきとうぐん
- 兵庫県:播磨国
- 飾東郡
〔中世〕
長元七年(一〇三四)二月八日の播磨大掾播万貞成解(九条家本延喜式裏文書)に「餝東郡」とみえる。しかし天暦四年(九五〇)一一月二〇日の東大寺封戸庄園并寺用雑物目録(東南院文書)に「餝磨西郡」とあるので、当郡も同年以前には成立していたと考えられる。性空上人伝記遺続集(円教寺蔵)によると、性空が書写山に入山した際(天暦二年)は飾万郡書写山といい、東西に分割後には飾西書写山となるが、以降も飾万郡書写山とも号した。国府所在地は東・西に属さず中条(郡)と称したという。「峯相記」にも飾磨郡が東・中条・西の三郡に分れていたとある。しかし中条郡はこのほかの史料にみえない。室町中期には中条郡域(府中)は飾東郡に所属した。なお播磨国飾磨郡円教寺縁起等事(円教寺蔵)に、同寺旧蔵の寛和三年(九八七)三月一八日の鐘銘に飾磨郡とあるということがみえるので、この頃は合併していたという説があるが、旧称が使用されていたのであろう。
郡域内(中条郡を含む)の国衙在庁機関は政庁として南北朝期まで機能したとされる。「府中」「国衙」と通称され、播磨国総社
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報