摩町(読み)さつまちよう

日本歴史地名大系 「摩町」の解説

摩町
さつまちよう

面積:七九・七七平方キロ

郡北東部にあり、町域は西に傾いた菱形を呈する。国見くにみ岳山系はじめ平八重ひらばえ岳・なか岳など六〇〇メートル級の山々が連なる山岳尾根山麓で界して北東部は伊佐郡菱刈ひしかり町、東は姶良あいら栗野くりの町・横川よこがわ町に接し、西は宮之城みやのじよう町・鶴田つるだ町、南は答院けどういん町、北は大口市。町域の大半が広大な山林・原野で占められている。ほぼ中央部を南東から西へ国道五〇四号、北北東から西へ国道二六七号が通る。

町内の遺跡は二二ヵ所が知られていたが、平成六年(一九九四)の分布調査で新たに二二ヵ所が追加され、計四四ヵ所を数える。旧石器時代の遺跡はこれまでのところ知られていない。縄文時代の遺跡は一〇ヵ所が知られているが、発掘調査例がなく遺跡の実態はほとんど不明である。弥生時代の遺跡はいまのところない。古墳時代では永野の別府原ながののびゆうばる地下式板石積石室墓群で七基、中津川北方の日露なかつがわきたかたのにちろ地下式板石積石室墓群で五基が発掘されている。そのほか一九ヵ所の古墳時代の遺跡が知られている。奈良・平安時代の遺跡はほとんどなく、中世では五ヵ所の山城を含め、一三ヵ所の遺跡が知られている。

平安末期以降薩摩国建久図田帳にみえる島津庄寄郡けどう院一一二町のうちで、地頭千葉常胤であった。一方、在国司大前氏が答院郡司として勢威を振るっていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報