日本歴史地名大系 「中津川村」の解説
中津川村
なかつがわむら
- 岐阜県:中津川市
- 中津川村
木曾川の支流、
慶長一二年(一六〇七)山村甚兵衛が市岡喜平次に宛てた年貢諸役の免除状(塚田克己氏所蔵文書)には「中津川村之内小野、五年之間、年貢諸役免許候」と、小野(子野)の地名がでている。「木曾故事談」は「請取米事、合拾俵納四斗入引起、右者井口傅左衛門に貸し候間、無相違可相渡者也以上、寛永六 巳十一月廿五日山甚 市岡長右衛門殿」と、文書の内容をあげ「右節長右衛門中津川代官相勤候与見へ候 此以前何年□被仰付候哉」としている。
中津川村
なかつがわむら
中津川村
なかつがわむら
中津川村
なかつがわむら
中津川村
なかつがわむら
中津川村
なかつがわむら
中津川の上流、葛城(和泉)山脈の南麓に位置する広域の村で、北は葛城山脈を境界にして和泉国(現泉佐野市)と、北東は
「続風土記」は「役ノ小角葛城を開きし時、斧を執りて前に在る者を前鬼といひ、後に在る者を後鬼といふ、後鬼の家は今大和ノ国吉野郡泥川村に五軒あり、前鬼の家は当村これなり、旧五軒なりしに子孫分れて別家となり十五軒許になる、又外より入来る者ありて今の姿となれり、小角の旧跡村中に最多し、これを行所と唱へて山伏の峰入する者皆行をなせり」と記している。
中津川村
なかつかわむら
中津川村
なかつかわむら
中津川村
なかつがわむら
中津川村
なかつがわむら
太閤検地の石高は三〇石九斗、耕地面積の比率は田四〇パーセント、畑六〇パーセントであったが、寛文検地には六・七倍に耕地が増加し、田二〇パーセント、畑八〇パーセントの比率に変化している。畑の一二倍増という急速な開発の結果である。
中津川村
なかつがわむら
- 茨城県:石岡市
- 中津川村
字
中津川村
なかつがわむら
中津川村
なかつがわむら
- 兵庫県:洲本市
- 中津川村
中津川村
なかつがわむら
中津川村
なかつがわむら
- 愛媛県:八幡浜市
- 中津川村
太閤検地の石高は二六二石二斗で、耕地面積の比率は田五二パーセント、畑四八パーセントであったが、寛文検地では石高が一・四倍に増加し、田一八パーセント、畑八二パーセントに大きく変化した。「墅截」による村柄は「上」、耕地は田が「中」、畑が「上」、水掛りは「吉」。鬮持制実施期の本百姓一人前の耕地は田三反八畝一八歩、畑一町四反四畝二一歩であり、百姓数五七人のうち本百姓四五人、半百姓九人、四半百姓二人、庄屋一人に分れていた。
中津川村
なかつかわむら
中津川村
なかつがわむら
中津川村
なかつがわむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報