映画製作の場所。最初の映画は,野外にカンバスをはって書割を背景に立て太陽光線を利用して撮影されていたが,1893年,アメリカのニュージャージー州ウェスト・オレンジにあるT.エジソンの研究所の一角に,キネトグラフ・カメラの開発者である主任研究員W.K.L.ディクスン(1860-1935)の設計による世界最初の撮影所がつくられた。ぶかっこうな長方形の木造建築で,内側と外側に黒いタール紙がはってあり,急傾斜の屋根の半分がちょうつがいじかけでもちあがって太陽光線をとり入れられるようになっており,また,建物全体が環状の軌道にのっていて,太陽の位置に応じて旋回できるようになっていた。そして内部の一方の端にキネトグラフ・カメラが据えられ,その反対側でサーカスやミュージック・ホールの芸人たちが演技をし,ときにはプロ・ボクサーやレスラーが試合をした。設計者のディクスンはこの撮影所を〈キネトグラフ・シアター〉と呼んだが,研究所の同僚たちは,黒塗りの建物が連想させる警察の囚人護送車のスラングである〈ブラック・マライアBlack Maria〉と命名し,通り名になった。このエジソン撮影所の建設費は637ドル67セントで,ここで撮影される映画の製作費は,特別大作が150ドル,普通作品が100ドルくらいであった。
97年,G.メリエスがパリ郊外のモントルイユ・スー・ボアにヨーロッパ最初の撮影所をつくり,人工光線を使って屋内での映画製作を始めた。メリエス自身の設計で,間口が7m,奥行きが17mあり,人工照明が不十分だったため,太陽光線をとり入れる必要から壁面がガラス張りの温室に似た建物,いわゆる〈グラス・ステージ〉であった。その中にトリック撮影用の設備があり,水槽に模型を浮かべてミニチュア撮影も行われた。また,〈グラス・ステージ〉に隣接して事務所,大道具製作所,機材室,衣装部屋,俳優部屋などがあり,製作システムを体系化する施設がそろっていた。その後メリエスの成功にならい,また映画の企業化の発展と機械技術の発達とともに,人工光線を利用し,ステージのほかにラボ(現像所)をそなえた撮影所が,イギリスやドイツでもつくられた。
アメリカでは,のちに〈映画の都〉となるハリウッドが映画人の手で開拓されるまえに,製作の中心であったニューヨークやシカゴにおける〈モーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー〉という映画トラストの圧迫から逃れた映画人たちによるロサンゼルスでの製作の歴史があるが,W.N.シーリグが1909年にハリウッド最初の撮影所をつくった。続いていくつかの撮影所がつくられたが,その中でとくに注目に値するのは,D.W.グリフィスと並んでアメリカ映画の草創期に足跡を残しているT.H.インス(1882-1924)が,12年に2万エーカーの土地を手に入れてつくったインスビル撮影所である。インスは,この撮影所に〈ワイルド・ウェスト・ショー〉をまるごと雇用し,ほんもののカウボーイ,インディアン,バッファローを使って西部劇を製作したが,同時に詳細緻密(ちみつ)な撮影台本shooting scriptを採用し,撮影所を機能別に10部門に分けて〈分業化〉を進めた。これは,撮影所全体をインスの意志のもとに統一した分業化で,のちに映画の製作システムとして確立された〈プロデューサー・システム〉の先駆的な導入でもあった。さらに,ハリウッドの歴史に残る一つは,映画トラストに反対する〈インデペンデント・モーション・ピクチャーズ〉の中心的人物であったC.レムリ(1867-1939)が,15年にサン・フェルナンド・バレーに建設した〈ユニバーサル・シティ〉と呼ばれる230エーカーの映画都市studio municipalityである。2万人の映画関係者が開所式を祝ったといわれるこの撮影所は,屋内でも屋外でも自由に撮影ができ,ルドルフ・バレンティノをはじめ多くのスターや監督たちの生れ故郷となり,のちにハリウッドの代表的製作者となったMGMのA.タルバーグとコロムビア映画のH.コーンもレムリの秘書をしてここから巣立った。
アメリカ映画は,東部からハリウッドへの移転を一つの契機として産業資本の時期を迎え,第1次世界大戦を契機に世界の映画市場を支配したが,19年には撮影所の株がウォール街に上場され始めて,映画は新しい〈ビッグ・ビジネス〉となった。それとともに撮影所も膨張して近代化され,ステージはアーク灯を照明用光源とするコンクリート建築になり,村落,市街,波止場,鉄道の駅などのある広いオープンセットが常備され,また撮影用に大農場やいろいろな地形の広大な地域を手に入れた撮影所もあり,20年代の中期には製作費の40%を間接費が占めるほどであった。こうして〈映画のメッカ〉ハリウッドの撮影所は〈夢の工場〉となり,〈撮影所システム〉と〈スター・システム〉に貫かれた映画の資本主義的工場生産が始まり,日本をはじめ世界の各国がこれにならった。
執筆者:柏倉 昌美
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
一定の敷地内に設けられた映画製作のための専門施設。ここで映画のセットが組み立てられたり、撮影や録音作業が行われる。敷地内には屋外の撮影現場もあるが、ステージとよばれる屋内の作業現場もいくつか設置されているのが通常である。またステージには、防音設備を配しているところが多い。史上初の映画撮影所は、アメリカのエジソン社が1893年にニュージャージー州に設けた「ブラック・マリア」で、日本では1908年(明治41)に建てられた吉沢商会目黒撮影所が嚆矢(こうし)とされる。映画産業の発展とともに、20世紀前半までに、ハリウッドの大手映画会社は「夢の工場」と称される広大な撮影所を所有するようになるが、ヨーロッパでもドイツのノイバーベルスベルク撮影所やイタリアのチネチッタ撮影所が巨大撮影所として名を馳(は)せた。しかし第二次世界大戦後、テレビの普及や娯楽の多様化などにより、映画会社の多くが経営難から撮影所の縮小や閉鎖、売却、あるいは貸スタジオなどへの業態の転換を余儀なくされるようになる。また、ロケーション撮影を重視する製作方式への移行や、撮影機材の性能面における飛躍的向上なども追い打ちとなり、いまでは往年の活気がみられることはほとんどなくなったものの、映画製作に欠かせない存在であることに変わりはない。
[奥村 賢 2022年6月22日]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…初期の映画は風景と戦争を二大テーマにして隆盛したといえる。08年には吉沢商店が東京目黒に日本最初の撮影所を建て,09年には日本最初の映画雑誌《活動写真界》が発行された。1909年7月31日付の《万朝報(よろずちようほう)》は〈活動写真の全盛〉と題する記事で,〈近来活動写真の流行は殆んど極点に達して居る。…
※「撮影所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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