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小説家。明治19年7月24日東京・日本橋蠣殻(かきがら)町(現日本橋人形町)に生まれる。父は倉五郎、母は関。倉五郎は入り婿で、潤一郎の下に三男三女がある(すぐ下の弟が英文学者谷崎精二)。祖父久右衛門は一代で産をなした進取の気性の商人で、母の関は「美人絵双紙の大関にされてゐた」(『幼少時代』)という評判の美人であった。が、倉五郎は商売下手で失敗を繰り返し、幼時は大家の坊ちゃんとしてだいじに育てられながら、坂本小学校の高等科を卒業するころは、中学へも進めない状態になる。教師や伯父の配慮で、1901年(明治34)数え年16歳で府立一中(現日比谷(ひびや)高校)に入学、翌年、秀才の特典で飛び級をして3年生になる。同級に辰野隆(たつのゆたか)がいた。『学友会雑誌』に早くから作文や漢詩を発表して注目され、05年、一高英法科に入学、文芸部委員となり、『校友会雑誌』に小説『狆(ちん)の葬式』(1907)その他を発表。08年、一高英法科を卒業、「創作家にならうと云(い)ふ悲壮な覚悟をきめ」(『青春物語』)て、東京帝国大学国文科に進む。
[大久保典夫]
1910年(明治43)9月、小山内薫(おさないかおる)を盟主として、和辻(わつじ)哲郎、大貫晶川(おおぬきしょうせん)、後藤末雄、木村荘太(そうた)らと第二次『新思潮』を創刊。資金は、小学校時代からの親友で、著名な中華料理店偕楽(かいらく)園のひとり息子笹沼(ささぬま)源之助と、木村荘太から提供された。島崎藤村(とうそん)の『破戒』(1906)に始まる自然主義文学運動もようやく行き詰まり、反自然主義の台頭に励まされた潤一郎は、創刊号に『誕生』、10月号に『象』、11月号に『刺青(しせい)』、12月号に『麒麟(きりん)』を相次いで掲載。同誌が7号で廃刊になったあと、続いて『スバル』の同人として『少年』『幇間(ほうかん)』(ともに1911)を発表。この間、東京帝大から授業料未納のかどで退学を命ぜられる。が、その11年の11月号の『中央公論』に『秘密』が掲載され、しかも同じ11月号の『三田文学』に永井荷風が『谷崎潤一郎氏の作品』を書き、その文学の特質を激賞するに及んで、新進作家として華やかにデビューする。荷風は谷崎文学の顕著な特質として、第一に、「肉体的恐怖から生ずる神秘幽玄(ゆうげん)」、第二に「全く都会的なる事」、第三に「文章の完全なる事」をあげたが、これは谷崎文学の本質のいち早い指摘として正鵠(せいこく)を射たものといえよう。続いて発表した『悪魔』(1912)には、極端なマゾヒズムと女性の悪魔性への賛美があり、この傾向は、『恋を知る頃(ころ)』(1913)から翌年の芸術家小説『饒太郎(じょうたろう)』に至って独自の世界を築く。しかし、これが芸術至上主義的な放浪生活から生活の正常化への志向を生み、15年(大正4)、石川千代と結婚し、『お艶(つや)殺し』(1915)以下の毒婦物を相次いで書くが、立て続けに発禁になり、『神童』(1916)、『異端者の悲しみ』(1917)などの自伝的作品に血路をみいだしてゆく。これらにも、「悪」の芸術性と正当性の主張が顕著で、また、『呪(のろ)はれた戯曲』(1919)、『途上』(1920)などのスリラー的手法による妻殺しがテーマの作品には、妻千代の妹せい子との恋愛の影が揺曳(ようえい)している。
[大久保典夫]
潤一郎は、1917年(大正6)に母を、19年に父を相次いで失い、神奈川県小田原(おだわら)に転居、20年から翌年にかけて大正活映株式会社の脚本部顧問となり、せい子(芸名・葉山三千子)を主演女優に映画製作を試みたりする。また、妻千代をめぐるトラブルから、親友の佐藤春夫と絶交する、いわゆる「小田原事件」の起こるのも21年中で、潤一郎が妻千代と離婚し、春夫が千代と結婚することで事件の解決をみるのは、実に10年後の30年(昭和5)中のことである。しかし、この間、23年の関東大震災をきっかけに関西に移住したことで、谷崎文学は画期的な飛躍を遂げる。『痴人の愛』(1924~25)は、震災後のアメリカ的風潮が生んだモダン・ガールの生態を描いた風俗小説として評判になり、続く『卍(まんじ)』(1928~30)は、同性の魅力のとりこになった人妻とその夫の破滅劇を、その人妻が大阪弁で告白する異色の長編として注目された。『蓼喰(たでく)ふ虫』(1928~29)は、自伝的要素の濃い「離婚待機小説」だが、すでにここに、数年後の古典主義時代の予兆としての日本回帰の志向がみられる。また、この間、上海(シャンハイ)に遊び、自殺直前の芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)といわゆる「『小説の筋』論争」を交わしたりした。
[大久保典夫]
1931年(昭和6)1月、『母を恋ふる記』(1919)以来の母性思慕の主題を深めた『吉野葛(よしのくず)』を発表。続いて9月『盲目物語』、10月から翌年11月にかけて『武州公秘話』、そして『蘆刈(あしかり)』(1932)を発表。しかし、「古典主義時代」といわれるこの期の最高傑作は、なんといっても33年の『春琴抄(しゅんきんしょう)』で、ここにみられる徹底した女性拝跪(はいき)は、そのまま根津松子(1935年結婚)への姿勢とつながるものだろう。
潤一郎は、1933年、日本美の再発見に言及した『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』を書き、続いて、35年から、終生の仕事となった『源氏物語』の現代語訳に着手する。また、36年『猫と庄造(しょうぞう)と二人のをんな』を書き、37年には芸術院会員に推された。42年から『細雪(ささめゆき)』の執筆を始め、戦後の48年(昭和23)、大阪の船場(せんば)育ちの蒔岡(まきおか)家の四姉妹を描いたこの大作を完成、翌年、文化勲章を授与される。
[大久保典夫]
敗戦の年、すでに59歳であった潤一郎は、高血圧症に悩まされながらも、なお旺盛(おうせい)な執筆活動を続け、『少将滋幹(しげもと)の母』(1949~50)、『鍵(かぎ)』(1956)、『夢の浮橋』(1959)、『瘋癲(ふうてん)老人日記』(1961~62)と、積年のテーマの深化を図りながら一作ごとに新境地を示す話題作を書き続け、昭和40年7月30日、腎(じん)不全から心不全を併発し、神奈川県湯河原(ゆがわら)の新居で死去した。京都市左京区鹿(しし)ヶ谷(たに)法然院に葬られている。
[大久保典夫]
『『谷崎潤一郎全集』全28巻(1972~75・中央公論社)』▽『伊藤整著『谷崎潤一郎の文学』(1970・中央公論社)』▽『野村尚吾著『伝記谷崎潤一郎』(1974・六興出版)』▽『野口武彦著『谷崎潤一郎論』(1973・中央公論社)』▽『笠原伸夫著『谷崎潤一郎――宿命のエロス』(1980・冬樹社)』
小説家。東京日本橋の商家の長男として生まれる。父倉五郎は〈敗残の江戸っ児〉の世代に属する無気力なタイプ,母せきは性格の強い美人だったといわれ,その幼児環境は潤一郎の精神形成に大きく作用した。東京府立第一中学校に入学したが,父が家業に失敗したため書生をしながら第一高等学校英法科に進み,さらに東京帝国大学国文科に籍を置いたが,1911年学費未納のため退学,ただちに作家生活に入った。その活動は明治・大正・昭和の3代,前後55年間にわたっているが,およそ五つの時期に区分できよう。第1期は明治末年の耽美主義の時代。1910年,小山内薫,和辻哲郎らと第2次《新思潮》を発刊し,同誌に発表した《刺青(しせい)》《騏驎(きりん)》などの短編小説が,翌11年11月《三田文学》誌上で永井荷風に激賞され,一躍文壇に登場する。世評は,潤一郎を反自然主義の若き旗手とみなした。第2期は,ほぼ大正年間全般にわたるモダニズムの時代。《異端者の悲しみ》(1917)ほか自伝的な作品,〈小田原事件〉と呼ばれる佐藤春夫との三角関係を題材にした作品などが多いが,概して不振作が目だつ。その不振に終止符を打ったのが,この時期の代表作《痴人の愛》(1924-25)の成功であった。第3期はいわゆる〈古典回帰〉の時代。1923年の関東大震災の後,関西に移住した潤一郎は,しだいに伝統文化と古典文学に眼を開き,昭和初年代の多産な活躍期を迎える。《盲目物語》(1931),《蘆刈》(1932),《春琴抄》(1933)など〈語り〉の機能を生かした作品が次々と書かれた。第4は戦時期。1935年から《源氏物語》の現代語訳に着手した潤一郎は,続いて大作《細雪(ささめゆき)》の準備にかかるが,戦時下の条件のもとで発表できず,完結は48年であった。第5に,戦後の老熟期。王朝文学の世界を舞台に母性思慕の主題を描いた《少将滋幹(しげもと)の母》(1949-50)に始まり,〈芸術かワイセツか〉という論争をひきおこした《鍵》(1956)を経て,〈老い〉と〈性〉との葛藤を追求しつくした《瘋癲(ふうてん)老人日記》(1961-62)を完成する。潤一郎の作品には,〈母〉と〈悪女〉という対蹠的な二つのタイプが交互に登場してくるが,女性のその両面を見きわめ,人間にとってのエロティシズムの意味の根源を老境にいたるまで存分に追求した巨人的作家である。
執筆者:野口 武彦
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明治〜昭和期の小説家
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
(中島国彦)
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1886.7.24~1965.7.30
明治~昭和期の小説家。東京都出身。日本橋の商家に生まれるが,父が家業に失敗して苦学した。東京帝国大学在学中の1910年(明治43)第2次「新思潮」を創刊して「刺青(しせい)」などを発表,永井荷風に激賞された。完成された文体とマゾヒズムを中心とする大胆な官能性,自然主義に反旗をひるがえす豊かな物語性などにより,文壇に衝撃を与えた。関東大震災を機に関西に移住。「痴人の愛」が前期の総決算となる。その後西洋崇拝を脱し,日本の伝統や関西の風土の再発見から「春琴抄」「細雪(ささめゆき)」や「陰翳礼讃(いんえいらいさん)」などを発表。「源氏物語」も口語訳した。晩年は「鍵」「瘋癲(ふうてん)老人日記」などで老人の性を描いた。49年(昭和24)文化勲章受章。「谷崎潤一郎全集」全30巻。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…活動写真は〈カツドウ〉の略語で親しまれ,映画説明者は活動弁士(そこから活弁ということばも生まれる),活動狂はカツキチと呼ばれ,また《活動之世界》《活動写真界》《活動俱楽部》といった映画雑誌も生まれ,映画人は活動屋と呼ばれた。 《アマチュア俱楽部》(1920)のオリジナルストーリーや《蛇性の婬》(1921)のコンティニュイティを書くなど,〈映画〉に深い関心を示していた作家の谷崎潤一郎は,17年の《新小説》9月号に〈活動写真の現在と将来〉,そして21年の同誌3月号には〈映画雑感〉というエッセーを発表している。このころに活動写真から映画に総称用語が移り変わっていったことがわかる。…
…古代・中世・近世へと時代を追うにしたがい,日本人は〈かげ〉を合理的に受け取るように変化していった。 最後に,〈かげ〉を,かげり,くもり,くらがりとしてとらえ直し,そこにこそ日本伝統美が存在することを確かめようとした谷崎潤一郎の長編随筆《陰翳礼讃》(1933)のあることを忘れてはならないであろう。日本家屋(とくに厠),漆器,食物などが〈常に陰翳を基調とし,闇と云ふものと切れない関係にある〉と見る谷崎は,〈美と云ふものは常に生活の実際から発達するもので,暗い部屋に住むことを余儀なくされたわれわれの先祖は,いつしか陰翳のうちに美を発見し,やがては美の目的に添ふやうに陰翳を利用するに至った。…
…その他,《六段》《新高砂》への三弦手付けや,《玉川》《越後獅子》などへの箏手付けは,現在大阪でよく用いられている。一時期,谷崎潤一郎に稽古をしたことから,谷崎作品に多くの影響を与えている。【久保田 敏子】。…
…谷崎潤一郎の長編小説。1943年(昭和18)の《中央公論》誌上に最初の2回分が掲載されたが,軍部の圧力によって中断。…
…谷崎潤一郎の小説。1933年6月《中央公論》に発表。…
…概してフランスの推理小説はなぞ解きパズルよりは,人間心理や物語性,社会・風俗に重点を置いている。
[歴史――日本]
明治時代の黒岩涙香などの翻訳・翻案によってイギリス,アメリカ,フランスの探偵小説(と当時は呼ばれていた)が日本に紹介されたが,創作の優れた作品といえば,大正期の谷崎潤一郎《途上》(1920),芥川竜之介《藪の中》(1922),佐藤春夫《女誡扇綺譚》(1925)などを待たねばならない。これらの作家はもちろん推理小説的作品だけを書いたわけではないが,後に日本最初の推理小説作家と呼ばれた江戸川乱歩,横溝正史(1902‐81)らは,上記の作品によって大きな刺激を受け,とくに怪奇,幻想の特色を受け継いだのであった。…
…谷崎潤一郎の小説。1924年(大正13)から翌25年にかけて,前半が《大阪朝日新聞》,後半が雑誌《女性》に連載された。…
…こうして日活は,〈活動写真〉の時代から〈映画〉の時代へ入っていく。
【小山内薫と谷崎潤一郎】
[小山内薫と松竹]
〈活動写真〉が〈映画〉に生まれ変わっていくに際し,大きな役割を果たした人物の一人に,〈新劇の父〉小山内(おさない)薫がいる。1920年,松竹が演劇界から映画界への進出を目ざして松竹キネマ合名社(のち株式会社)を設立したとき,小山内薫は理事として招かれるとともに松竹キネマ俳優学校の校長に就任,東京蒲田の撮影所が開設されるや,総監督を任ぜられた。…
…これをうけて,フランスの悪魔主義の作家ペラダンは《トルストイに応える》を書き,〈美が生み出すのは感情を観念に転化する独自の歓び,つまり抽象的な動きである〉と反論した。これは唯美主義の本質をつく言葉であり,ワイルドにも,またその影響が濃厚な《禁色》の作家三島由紀夫や,同じくワイルドの《謎をもたぬスフィンクス》を種本に短編《秘密》を書いた谷崎潤一郎にも当てはまる。 19世紀以来の唯美主義は観念的美の世界と悪魔的な官能美への惑溺,すなわちデカダンスdécadenceの二極を絶えず往復しているが,これはスウィンバーンに影響を与えたフランスの文学者ゴーティエやボードレールに始まる。…
※「谷崎潤一郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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