新川端町下(読み)しんかわばたまちしも

日本歴史地名大系 「新川端町下」の解説

新川端町下
しんかわばたまちしも

[現在地名]博多区下川端町しもかわばたまち上川端町かみかわばたまち

那珂なか(博多川)東岸沿いに川端町の南に続く町。南は土居町流の新川端町上に続く。川端町との境の溝(大水道)に架かるみなと橋南詰にかがみ天神(現鏡天満宮)がある(福岡博多近隣古図)。元禄三年(一六九〇)の家数三三(続風土記)。明和三年(一七六六)の家数三三・間数一二七間余(石城志)。慶応二年(一八六六)の家数六二(博多店運上帳)。当町清右衛門の屋敷地は表口四間半・入り一五間とされていたが、寛文一一年(一六七一)隣家亦右衛門は実際には清右衛門の屋敷尻が表口より二尺三寸広がっており、広がっている分を町有地とするよう訴えた。町奉行は新地である当町については現状優先として訴えを却下している(津要録)。ところで鏡天神社地の入りも一五間であることから、当町の入りは一五間が基本になっていたと推測される。

石城志」によると、寛文年中姫路屋井上利右衛門(理右衛門)上座じようざ川より中島なかしま川へ新川を掘って、川船を自由に通行させたいと数百金を費やしたが成就しなかったという。ただしこのとき利右衛門は川端に諸公役免の蔵地を与えられていたので、のちに小借家としたという。この新川開削について「新訂黒田家譜」には、寛文四年に上座郡下座げざ郡からの物資を運送するため千年ちとせ(千歳川・筑後川)から新川を掘通し、御笠みかさ郡を経て那珂比恵ひえ(御笠川)に導き入れようとしたが難工事のため中止されたとある。なお姫路屋理右衛門は寛文一一年には博多年行司で、北隣の川端町に諸役免除の抱屋敷をもっていたが、延宝八年(一六八〇)類焼したため年行司服部太右衛門に売却している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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