新戸村
しんどむら
[現在地名]相模原市新戸・新磯野一―四丁目・相武台一―三丁目・相武台団地一―二丁目・相模台一―四丁目、座間市明王
相模川の東、中央を南北に横山段丘が連なり、東は相模野の座間野に連なる。北は磯部村、南は座間宿村(現座間市)に接する。横山の西を流れる鳩川沿いに八王子道が通り、座間宿村境で東に府中道が分れる。河岸段丘上に畑、相模川の氾濫原新戸河原に田がある。五ヵ村用水が南北に通る。
天文一二年(一五四三)一〇月二四日北条家朱印状写(県史三)に「相州東郡座間之郷新戸村安藤与太郎七ケ村之可為名主職之司」とあり、座間郷七ヵ村の一つであった。「甲陽軍鑑」にみえる永禄一二年(一五六九)武田信玄の小田原発向に際して、その旗本軍が相模川を渡ったと伝える「新道」は当地に比定されている(風土記稿)。
新戸村
しんどむら
[現在地名]勝浦市新戸
関谷村の北方、夷隅川上流域に位置し、大多喜往還が通る。里見氏が築いたという砦跡があり、御城下・御蔵下などの地名がある。天保七年(一八三六)の勝浦町外五拾村組合絵図(勝浦郷土資料)に新戸村内古城跡と記される。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高九八〇石。正保国絵図でも高九八〇石であるが、元禄郷帳では高一三〇石で、当村枝郷の宿戸村・白木村・中谷村・平田村が別に高付されている。
新戸村
あらどむら
[現在地名]伊奈村新戸
市野深村東南、中通川東岸に位置。市野深西方の芦戸地区も新戸に属する。古くは新戸新田といい(新編常陸国誌)、「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には旗本勝田鋼吉の知行地で村高五〇四石。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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