伊奈村(読み)いなむら

日本歴史地名大系 「伊奈村」の解説

伊奈村
いなむら

[現在地名]あきる野市伊奈・上ノ台うえのだい

あき川左岸にあり、南は秋川を境に網代あじろ高尾たかおの二村と接する。永禄五年(一五六二)と推定される六月二一日の北条氏照朱印状(田中文書)に「虎御印判を以如被仰出、伊那・平井両郷にて、伝馬隔番」とあり、平井ひらい(現日の出町)と隔番で伝馬宿を勤めるよう命じられている。文中の虎御印判は同月四日付の北条家朱印状(同文書)で、平井郷を伝馬宿として一日三疋の伝馬役を命じた文書であるが、氏照は平井郷単独では負担が大きいと判断したのであろう。天正二年(一五七四)八月一一日の讃岐用人回状写(風土記稿)に伊奈とある。江戸時代当地の村役人を勤めた田島氏の伝えた北条氏照朱印状(同書)によれば、氏照は田島治郎左衛門尉の見棚役・棟別銭三間・六日普請人足を免除する代りに「扇之地骨」製作をもって仕えるよう命じており、田島氏は扇職人であったようである。また伊奈は石工の居住した地で、中世から近世にかけて伊奈石を産出し、五輪塔や板碑に加工された。

慶長九年(一六〇四)の伊奈之郷名寄帳(大福家文書)では高一一五貫七九二文(納高一一七貫一一文)で、ほかに現物納は綿二貫四四〇匁・紬三二反・荏一二俵・漆二七三盃(ただし荏・漆は金納)であった。田園簿に伊奈宿とみえ、田一八石余・畑五六〇石余で幕府領、ほかに紙舟役永一四三文。寛文七年(一六六七)検地帳(五日市町史)では田二町九反余・畑七五町一反余(うち中畑二二町三反余・下畑二七町九反余)・屋敷六町五反余。元禄郷帳では高六六二石余。享保六年(一七二一)の山之根村高改帳では幕府領六五二石余とある。


伊奈村
いなむら

面積:四六・七〇平方キロ

筑波郡南端に位置。西・南縁を小貝こかい川、東縁を西谷田にしやた川が流れる。中央より東北部寄りには台通だいどおり用水と西谷田川に挟まれた微高台地があり、林野と畑が多くゴルフ場などにも利用される。西南部の低地帯は「谷原やわら三万石」の一部をなす米作地帯で、台通用水の西方川通かわどおり用水が東南へ流れて灌漑の便を供している。


伊奈村
いなむら

[現在地名]上県町伊奈

志多留したる村の南東に位置する。伊奈崎に囲まれて立地する南向きの村。北東に太田隈おおたくま山があり、伊奈川が南流して浦に注ぐ。府中ふちゆう(現厳原町)から一六里三一町という(津島紀略)。式内社の伊奈久比いなくい神社が鎮座するのをはじめ古社や古跡が多く、「和名抄」に記される上県郡伊奈郷の遺称地とされる。平安後期は伊奈院と称し、中世は伊奈郡などとみえる。「郡方毎日記」寛永一五年(一六三八)条に「大いな」とみえる。万治四年(一六六一)の検地帳には伊奈郡伊奈村とみえ、高三〇石余。元禄一六年(一七〇三)の対州郷村帳では伊奈郷内として田畑木庭物成八二石余、家数五〇・社一・寺二、人数二六二・給人一・公役人二九・肝入二・猟師二一、牛四二・馬二五、船一二で、寺は禅宗の桂林けいりん(現曹洞宗桂輪寺)妙光みようこう寺。


伊奈村
いなむら

[現在地名]小坂井町伊奈

平井ひらい村の西北にあたる。「宗長手記」大永六年(一五二六)三月の末頃に「田三・同名平三郎。猪名(伊奈)と云所一宿」と記し、翌七年四月の初め頃に

<資料は省略されています>

と記しているから、もと村内に城があって上島うえしま城とよばれていたことが知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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