新知恩院(読み)しんちおんいん

日本歴史地名大系 「新知恩院」の解説

新知恩院
しんちおんいん

[現在地名]大津市伊香立下在地町

真野まの川上流の小盆地にあり、伊香立いかだち峠や途中とちゆう峠を越えると京都大原おおはら(現京都市左京区)に通じる。浄土宗。大谷山華頂寺と号し、本尊阿弥陀如来。京都知恩院末で、応仁・文明の乱を避けた知恩院が疎開した地に建立された。年月日未詳の朽木稙綱書状(総本山知恩院旧記採要録)によれば、時の知恩院住持周誉珠琳が京都騒乱で法要も修しがたくなったので近江移転を企て、朽木くつき谷の領主朽木稙綱を頼り、その指示で伊香立へ知恩院の法然像を護持して下向することになった。しかしこの頃朽木家の当主は稙綱の曾祖父高時であり、稙綱が活躍するのは応仁年間(一四六七―六九)より数十年後であるためこの書状を偽文書とする説がある。伊香立荘は慈円以来青蓮院門跡領で、また珠琳は青蓮院門跡尊応から寺家敷地・山林・寺領・惣別寮舎の敷地などを安堵され、知恩院中興の開山と称されるなど、京都青蓮しようれん(現京都市東山区)との関係が深いので、尊応の外護でその領有地の伊香立に難を避けたとする考えがあり、有力な説となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の新知恩院の言及

【知恩院】より

…8世如空(によくう)は法然の伝記の集成をこころざし,弟子の舜昌(のち9世となる)に《法然上人絵伝》48巻を完成させた。1431年(永享3)火災にかかり,20世空禅は1人1文ずつ48万人を勧進(かんじん)する方法で浄財を集めて再建したが,応仁の乱が起こり,68年(応仁2)兵火に焼けたので,22世珠琳(しゆりん)は法然の御影などの霊宝をもって近江の伊香立(いかだち)に避難した(のち新知恩院となる)。乱後,珠琳は京都にもどり,堂舎の復興につとめ,88年(長享2)ほぼこれを成し遂げ,青蓮院の尊応准后(じゆごう)から寺地所領を安堵されている。…

※「新知恩院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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