新納院(読み)にいろいん

日本歴史地名大系 「新納院」の解説

新納院
にいろいん

鎌倉時代には近衛家領島津庄の寄郡で、近世に入っても広域呼称として引続き使用された。

〔中世〕

建久図田帳に島津庄寄郡として新納院一二〇町とみえ、児湯郡に所在し、地頭は中原親能であった。その後新納院地頭職は島津氏に伝来し、文保二年(一三一八)三月には島津忠宗が時久に譲っている(「関東下知状并島津道義譲状案」樺山文書)。時久は新納たか(現木城町)に居住し、新納を名乗ったという(天文四年「新納忠勝聞書」旧記雑録)。文保二年六月五日の田部栄直の書上になる日向在国司職注文(土持文書)には新納院の算失米一三石が計上され、行騰皮などとともに山毛やまげ(現東郷町)分二石と宮頸みやのくび(現新富町)の請料二貫五〇〇文がみえる。元弘三年(一三三三)八月四日、建武政権は新納院、救仁くに(現鹿児島県大崎町など)での肝付兼重らの違乱停止を島津貞久に求めている(「後醍醐天皇綸旨」島津家文書)。建武二年(一三三五)一二月一一日、足利尊氏は島津時久に勲功の賞として新納院地頭職を宛行っている(「足利尊氏宛行状」新納氏系図)。同年五月、日向国大将畠山直顕は土持宣栄に対し、南朝方の益戸行政らとの新納院における合戦忠節を賞している(同月一二日「畠山直顕感状」旧記雑録)。同年七月九日、益戸行政らが新納院政所城に押寄せ、日下部(那珂)盛連らと合戦となっている(同月一〇日「日下部盛連軍忠状」郡司文書)。同五年一月二八日、盛連らは益戸氏の立籠る新納院のいし(現木城町)に攻め寄せ、三日間にわたり合戦となっている(同年二月二日「日下部盛連軍忠状」同文書)

日向国に下向した伊東祐重は貞和四年(一三四八)一二月日智屋ひちや(現日向市)に着船し、新納内の野田で被官の山田・荒武・津留・大脇各氏に迎えられたという(日向記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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