改訂新版 世界大百科事典 「日産争議」の意味・わかりやすい解説
日産争議 (にっさんそうぎ)
1953年夏,100日間にわたって争われた日産自動車における労働争議。日本資本主義の朝鮮戦争による特需経済から〈経済自立〉と高成長経済への転換期にあたって,資本家階級が課題とした問題の一つは〈職場秩序の確立〉にあったが,日産争議はこの点をめぐる労資対立を象徴する事件であった。当時,全自動車労組(全日本自動車産業労働組合。1948年3月結成)日産自動車分会は,自動車産業を平和産業として再建するために平和闘争を行うとともに,〈生産の主導権を労働者がにぎる〉ことを合言葉にして〈職場委員会〉のもとに強力な職場規制を行うなど,最強の組合として知られていた。争議は53年5月,全自動車労組の賃上げ闘争に際して会社側が組合活動の制限と課長の非組合員化を主張したことに端を発し,組合側の無期限ストライキと会社側のロックアウトの対立という形で深刻化したが,警察権力の発動と第二組合の結成によって収束に向かい,9月組合側の敗北をもって終結した。この争議は当時,労資決戦の関ヶ原とも呼ばれ,世間の耳目を集めたところであるが,産業別組織である全自動車労組の解散(1954年12月)をその副産物として生んだことにより,労働運動史上特筆すべき位置におかれている。
執筆者:上井 喜彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報