溝口宿(読み)みぞくちしゆく

日本歴史地名大系 「溝口宿」の解説

溝口宿
みぞくちしゆく

[現在地名]溝口町溝口

北流する日野川右岸に位置し、近世宿場町として栄えた。地名の由来は、かつて河床が高かった時代に用水溝の取入口に位置したことによるという(日野郡史)。出雲松江藩主の参勤交代路である出雲街道と重なる日野往来が宿内を南北に通り、南の谷川たにがわ村で出雲街道は対岸宇代うだい村に渡り、日野往来と分岐する。北の大江おおえ村はかつて当村の枝郷であったが、天保五年(一八三四)新田村として分村(藩史)。島根県大田市に所在する鶴岡南つるがおかみなみ八幡宮の六角堂内の鉄塔中に大永五年(一五二五)三月吉日銘をもつ経筒があり、「六十六部□ 伯州日野郡溝口 □明心□」と刻される。永禄七年(一五六四)と推定される七月二四日の小早川隆景・吉川元春・毛利元就連署書状(閥閲録)に「久代・神辺此時至溝口罷出候へと申候」とあり、毛利方が日野郡制圧のためか備後の久代・神辺両氏に対して当地への出陣要請を行っているが、この着陣は遅れていたらしい。藩政期の拝領高は三一七石余、本免は六ツ五分。年貢米米子御蔵納であったが、遠距離で運搬負担が重かったため慶応元年(一八六五)半数を地蔵納、残りを米子御蔵の預米を購入して納付することを許されている(在方諸事控)元禄郷帳では高四六五石余で、大江村の開発による増高と考えられる。延享三年(一七四六)の巡見使案内手帳(宇田家文書)によると高五〇七石余、家数一〇六・人数四一二、馬二五・牛三七。幕末の六郡郷村生高竈付では生高五四四石余、竈数一〇四。「伯耆志」では家数一三〇・人数四八〇、社倉があり、産物は鮎・多葉粉。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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