黒坂村(読み)くろさかむら

日本歴史地名大系 「黒坂村」の解説

黒坂村
くろさかむら

[現在地名]日野町黒坂

東流する日野川が北へ直角に流れを変える左岸段丘上に位置し、北は下黒坂しもぐろさか村。同川を遡行してきた日野往来の左岸路と右岸路が村内で合流し、日野川を渡って南へ向かう玉島たましま街道が分岐する。享保一一年(一七二六)の「因伯地理志」によると日野往来の道幅一間、西の小河内おごうぢ村までの一三町一三間は岨道で、うち一町ほどは平地から高さ九間の地を通ったとされる。鳥取藩士福田氏の黒坂陣屋が置かれ、陣屋町・宿駅としての性格を有した。北西に支村横手よこて村がある(伯耆志)。村名は村に入る九つの坂道にちなみ九路くろ坂と称したことに由来するという(「伯州黒坂開元記」山上家文書)。「和名抄」にみえる日野郡日野郷の中心地域とされ、郡家所在地とする説がある(鳥取県史)

天正三年(一五七五)一二月一〇日の香川景盛書状(長谷部家文書)によると、「黒坂五百貫之大宮司之儀」を先規のとおり雅楽左京進に安堵している。同二〇年正月一一日の毛利輝元条々写(武田金三氏所蔵文書)からは、輝元が朝鮮出兵に際して「黒坂」の留守居を吉川氏に命じたことが知られ、近世初期の鏡山かがみやま城築城以前に当地に城が存在していたと考えられる。前掲開元記には、慶長三年(一五九八)までの当地は高里こうり古市ふるいち・横手の三ヵ村からなり、「茫々たる沢野にして人住里とは見えざりし」と記されるが、同一五年の関一政入封に伴って町割が行われ、家数一千七軒の黒坂城下が形成されたという。元和三年(一六一七)池田光政領となり、寛永九年(一六三二)の光政と池田光仲の国替を経て、鳥取藩領として幕末に至る。藩政期を通じ福田氏の給地であった(給人所付帳)。拝領高は横手村を含み二三八石余、本免は六ツ四分。明和七年(一七七〇)には悪田浮加損米五石余が免ぜられた(三輪家文書)。延享三年(一七四六)の巡見使案内手帳(宇田家文書)によると高一一三石余、免六ツ四分、家数一一七・人数五七三、馬一〇・牛五〇。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二八一石余(横手村を含む)、竈数一六三。

黒坂村
くろさかむら

[現在地名]大宮町野原のわら

野原村の東にあり、田丸たまる(現玉城町)から南回りの熊野脇くまのわき街道に沿う。尾合おごう川が西の野原村、注連指しめさす(桃イミ川)が東の田口たぐち(現度会町)の村境をそれぞれ宮川に注ぐ。

建武二年(一三三五)七月一六日の中院具光申状(西園寺家文書)に「伊勢国黒坂」とみえる。近世は和歌山藩田丸領、延宝年中(一六七三―八一)山神組に属する(七保村誌)。安永二年(一七七三)の大指出帳(「七保村誌」所収)によれば高二〇八石余、田方屋敷一〇町余、畑方七町余、川欠荒五反余、ほかに新田畑が三町余。茶口は金六両三歩、銀七匁六分と高額。

黒坂村
くろさかむら

[現在地名]下山村黒坂

現下山村の西南端に位置し、東は現南設楽みなみしたら作手つくで村、南は現額田ぬかた郡額田町、西は小松野こまつの村、北は和合わごう村・羽布はぶ村に接する。ともえ川の支流大桑おおくわ川とこれに注ぐ黒坂川が流れ、集落は小起伏面上に点在。国道三〇一号と現主要地方道阿蔵―本宿線が通る。寛永一二年(一六三五)当時、刈谷城主松平忠房領。

黒坂村
くろさかむら

[現在地名]野津町 黒坂

於牟連おむれ村の西、蛇行しながら北西流する野津川南岸にある。西は荻原おぎわら(現犬飼町)。日向道が北東から南西へ通る。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には黒坂村が荻原村など二ヵ村分と一括された一冊が含まれ、村位は中。同一一年の惣御高頭御帳に村名がみえ、高八二石余。鍋田村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方四七石余・畑方八六石余。

黒坂村
くろさかむら

[現在地名]勝央町黒坂

出雲往来筋の村で、福吉ふくよし村の南に位置。正保郷帳に村名がみえ、田四二六石・畑八二石。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高一二九石余・開高三石余、村位は上。美作国郡村高并戸数里程事(武家聞伝記)によると延宝(一六七三―八一)頃と考えられる戸数四一(うち押田九など)。津山藩主森氏断絶後の領主の変遷は初め福吉村とほぼ同じと思われるが、寛政一一年(一七九九)から播磨龍野藩預、文化四年(一八〇七)から美濃岩村藩領、同一四年から津山藩領で明治に至る(美作国郷村支配記)

黒坂村
くろさかむら

[現在地名]十王町黒坂

標高三〇〇―六五八メートルの多賀山地丘陵上に位置し、東は高原たかはら村。元禄郷帳に「黒坂村」と記され、「水府志料」によると村の東西一六町余・南北三〇町余、文化初年の戸数は三一で、「村名を黒坂といへるは、黒坂命の故を以て名付けたるならん歟」と記される。

黒坂村
くろさかむら

[現在地名]和島村黒坂

上桐かみぎり村の南。正保国絵図では高三四石余で幕府領。慶安二年(一六四九)村上藩領となる。貞享元年(一六八四)郷村高辻帳では高六六石余。黒坂溜くろさかだまりは当村・上桐村・門新かどしん村の田地一〇〇町歩を灌漑する用水池で、江戸中期に村上藩が三条代官所管内の領民を使役して開削したという(三島郡誌)

黒坂村
くろさかむら

[現在地名]見附市小栗山こぐりやま

小栗山村の南、集落は東山丘陵西麓にある。慶長一〇年(一六〇五)新発田藩の給知方村々高目録(新発田市史資料)に村名がみえ、毛付二四石一斗余・荒二三石六斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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