朝日日本歴史人物事典 「日野資実」の解説
日野資実
生年:応保2(1162)
鎌倉前期の公卿。権中納言兼光の子,母は上野介源家時の娘。家実を改名。三事兼帯,蔵人頭,参議,左大弁を経て元久1(1204)年権中納言,承元4(1210)年正二位。建暦1(1211)年大宰権帥となり,承久2(1220)年出家。法名知寂。日野後帥と号される。九条家の家司でもある。文章博士,土御門・順徳両天皇の侍読を勤めた日野流儒家で,和漢の学に秀で故実に明るい。論議,申詞,申請などに功績があり,詩文関係の活躍は「元久詩歌合」作者,承元2年高陽院文殿作文題者,建保1(1213)年「内裏詩歌合」作者,同2年内裏和歌御会序者,同4年中殿御作文題者など。「資実長兼両卿百番詩合」「和漢兼作集」に作品が載り,『願文集』に建暦1年および建保3年の後鳥羽院の仏事に関する願文が載る。和歌の詠出は建久6(1195)年「民部卿家歌合」,同9年大嘗会屏風和歌,正治2(1200)年「石清水若宮歌合」など。『新古今集』以下の勅撰集に9首入集。日記『都玉記』。『六代勝事記』の作者とする説がある。
(今村みゑ子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報