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日野輝資 ひの てるすけ

美術人名辞典の解説

日野輝資

安土桃山・江戸前期の公卿。広橋国光の子。日野晴光の嗣子初名は兼保・兼潔、法名は唯心院。詩歌を巧にし、有職故実に精通していた。また、千利休に就いて茶道を学び、徳川家康・秀忠に学を講じるなど専ら文雅の道を能くした。元和9年(1623)歿、69才。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

日野輝資 ひの-てるすけ

1555-1623 織豊-江戸時代前期の公卿(くぎょう)。
弘治(こうじ)元年生まれ。広橋国光の子。日野家をついで正二位,権(ごんの)大納言となるが,故あって慶長7年(1602)出仕をとめられる。12年出家。有職(ゆうそく)故実に通じ,また和歌・茶をよくした。のち徳川家康につかえた。元和(げんな)9年閏(うるう)8月2日死去。69歳。初名は兼保。法号は唯心院。

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朝日日本歴史人物事典の解説

日野輝資

没年:元和9.閏8.2(1623.9.26)
生年:弘治1(1555)
安土桃山・江戸時代の公卿。実父は広橋国光,実母は高倉永家の娘。前名は兼保。永禄2(1559)年に日野家を継ぐ。天正4(1576)年蔵人頭,同5年に参議,従三位,同7年に権中納言,同15年権大納言,正二位となった。慶長7(1602)年に子資勝と共に朝廷への出仕を止められ出奔し,同8年に権大納言を辞任して,同12年に出家した。その後,唯心院と号して徳川家康に仕えたびたび駿府に下向,同18年には家康より近江国(滋賀県)蒲生郡清水脇村などに1033石4斗余の地をあてがわれた。家康の没後は江戸に下向して徳川秀忠に祗候し,元和9(1623)年に上京して没した。法名知云。有職故実,文芸に詳しく,千利休と親交があった。日記に『輝資卿記』(1605~11)がある。

(伊東正子)

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世界大百科事典 第2版の解説

ひのてるすけ【日野輝資】

1555‐1623(弘治1‐元和9)
織豊・江戸初期の公卿。贈内大臣広橋国光の子。初名は兼保。1559年(永禄2)日野の家督を相続し輝資と改名。62年元服,叙爵。累進して76年(天正4)蔵人頭,77年参議従三位,87年正二位権大納言となる。1602年(慶長7)出仕を止められ息資勝とともに出奔。03年辞官。07年出家し唯心院と号する。有職故実に詳しく,また和歌・茶湯をよくし,徳川家康の知遇を得てしばしば駿河に下り,その諮問にあずかった。日記に《輝資卿記》がある。

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