日本大百科全書(ニッポニカ) 「日野家」の意味・わかりやすい解説
日野家
ひのけ
公家(くげ)。藤原北家(ほっけ)流。右大臣内麿(うちまろ)の長子真夏より出る。その孫家宗(いえむね)が山城国(やましろのくに)宇治郡日野(京都市伏見(ふしみ)区)に法界寺(ほうかいじ)を創立、さらにそれから5世後の資業(すけなり)が11世紀なかばに法界寺薬師堂を建立し、以後日野氏を称する。儒学と文章を家道として朝廷に仕え、大学頭(だいがくのかみ)に任ぜられることが多かった。鎌倉末から南北朝内乱期にかけては、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の討幕計画に参画し、のちに処刑された資朝(すけとも)、俊基(としもと)がよく知られているが、他方で北朝に仕え室町幕府の創設に尽力した者もいる。室町時代には時光(ときみつ)の女(むすめ)業子(なりこ)が足利義満(あしかがよしみつ)に嫁いで以来、代々足利将軍家と縁戚(えんせき)を結ぶようになり大きな権勢を振るうようになる。「万人恐怖」といわれた足利義教(よしのり)の時代には、その室日野重子(しげこ)の長男出産を祝って多くの公家や僧侶(そうりょ)が兄日野義資(よしすけ)のもとを訪れたが、当時義資は義教の勘気にふれ謹慎中であったため、彼を訪れた60人の公家や僧がみな処分されるという事件があった。また1443年(嘉吉3)の南朝勢力による内裏(だいり)襲撃では、それに内応したとして日野有光(ありみつ)が滅ぼされている。さらに応仁(おうにん)の乱(1467~77)前後の激動する政局のなかで、足利義政(よしまさ)室日野富子(とみこ)と兄勝光(かつみつ)の専横ぶりは、多くの史料の物語るところである。江戸時代には家禄(かろく)1153石を得、明治時代に至り伯爵を授けられた。その支族には、裏松(うらまつ)、四辻(よつつじ)、烏丸(からすまる)、柳原(やなぎはら)、竹屋(たけのや)、日野西(ひのにし)、外山(とやま)、豊岡(とよおか)、三室戸(みむろど)、北小路(きたのこうじ)、広橋(ひろはし)、勘解由小路(かでのこうじ)などがある。
[酒井紀美]