是政村(読み)これまさむら

日本歴史地名大系 「是政村」の解説

是政村
これまさむら

[現在地名]府中市是政一―六丁目・日吉町ひよしちよう矢崎町やざきちよう三―五丁目・小柳町こやなぎちよう五丁目・南町みなみちよう一丁目・同六丁目・浅間町せんげんちよう一―四丁目・若松町わかまつちよう一―二丁目・同四丁目・清水が丘しみずがおか一―二丁目・晴見町はるみちよう一―二丁目・同四丁目・天神町てんじんちよう四丁目・新町しんまち二丁目・多磨町たまちよう四丁目

府中宿の東、多摩川北岸に位置し、東は小田分おだぶん村、北は小金井村、南は同川を隔て大丸おおまる(現稲城市)甲州道中東西に通る。多摩川北岸に集落がある。是政の地名伝承としてはこの地を支配した小田原北条氏の家臣とされる井田是政にちなんだものとされている。「風土記稿」によれば、古くは横山よこやま村といったが、天正年中(一五七三―九二)井田摂津守是政が八王子城落城後当地土着して荒廃した田地を復興、これによりのちに村名を是政村とよぶようになったと伝える。これに対して「私案抄」には応永三三年(一四二六)二月二八日、井田雅楽助忠行・新左衛門尉政家が亡父道祐の十三回忌法要を行った際の諷誦文みえ、「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)一一月七日条に源頼朝の上洛に従った武士のうちに井田太郎・井田次郎、承久三年(一二二一)六月一八日条には同月一三日宇治川の戦で負傷した人々のうちに井田四郎太郎の名がみえており、井田氏は鎌倉時代からの土着の武士とする説もある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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