精選版 日本国語大辞典 「南北朝」の意味・読み・例文・類語 なんぼく‐ちょう‥テウ【南北朝】 ( 南朝と北朝の意 )[ 一 ] 晉から隋までの間に中国を支配した南北の諸王朝。南朝は東晉の滅亡後、江南に拠った宋・斉・梁・陳の四朝(四二〇‐五八九)、北朝は五胡十六国の騒乱後、華北に拠った北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五朝(三八六‐五七七)で、北周を滅ぼした隋が南朝の陳を合わせて南北を統一した。[ 二 ] 日本で、中世、南北朝時代に分立対抗した大覚寺統の朝廷である南朝と、持明院統の朝廷である北朝との併称。戦国時代ころより、中国の例により併称するようになった。また、その時代。[初出の実例]「建武間天下瓜分、南北朝称二両帝一」(出典:翰林葫蘆集(1518頃)一三) 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
百科事典マイペディア 「南北朝」の意味・わかりやすい解説 南北朝【なんぼくちょう】 中国で晋から隋にいたる中間の時代をさし,5―6世紀,南北に漢族と異民族の王朝が対立した。南朝は東晋のあと,宋・斉・梁・陳と交替。北朝は北魏の統一を経て,2国に分裂したが,再び北周が統一。隋が受け継ぎ589年陳を滅ぼし,天下を統一。→魏晋南北朝時代/六朝文化→関連項目オケオ|魏|周 出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「南北朝」の意味・わかりやすい解説 南北朝[中国]なんぼくちょう[ちゅうごく]Nan-bei-chao; Nan-pei-ch`ao 中国,晋と隋との中間の時代 (420~589) 。その間,江南では宋,南斉,梁,陳の4王朝が相次いで建ち,華北では鮮卑の北魏,それの分裂した東魏,西魏,それぞれのあとをうけた北斉,北周の5王朝が建った (439~581) 。前者を南朝といい,後者を北朝といい,この時代を南北朝 (時代) という。ただし,中国では北周を受け,陳を滅ぼして天下を統一した隋までを北朝に入れる。南朝を特色づけるものは貴族制であるが,梁末の大乱によって貴族がほとんど滅んだため,陳時代には形骸化した。江南では貴族,豪族の大土地所有が盛んで,多数の依付者 (田客など) がいた。また富裕な庶民層の台頭も目立っていた。北朝でも貴族制は成立していたが,鮮卑族の力を背景とする皇帝権力は南朝よりも強かった。北朝に始った均田制,府兵制は隋,唐に継承された。南朝では文学,芸術に著しい発達がみられた。北朝では伝統的中国文化の摂取に努めたものの,特にみるべき発展はなかった。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
旺文社世界史事典 三訂版 「南北朝」の解説 南北朝なんぼくちょう 晋から隋に至る中国の分裂時代南朝とは江南で交替した宋・斉・梁・陳の4王朝をいい,またこれ以前の呉・東晋(317〜420)を含めて六朝 (りくちよう) とも呼ぶ。北朝とは華北で五胡十六国を統一した北魏(後魏)のあと,分裂して東魏 (とうぎ) ・西魏 (せいぎ) ,北斉・北周をへて隋に統一されるまでをいう。南朝は九品中正による貴族支配が確立し,政治的には不安定であったが,六朝文化の華がさき,江南の経済開発も進んだ。北朝は漢民族の支持を得るために中国化政策をとり,均田制や三長制によって強力な政治支配を確立した。また仏教が隆盛で,雲崗 (うんこう) ・竜門 (りゆうもん) などの石窟寺院も造られた。北魏時代には寇謙之 (こうけんし) によって道教が宗教教団として完成し,一時仏教が禁圧されたが,まもなく復興した。 出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報