最後の人
さいごのひと
Der letzte Mann
ドイツ映画。1924年製作。フリードリヒ・ウィルヘルム・ムルナウ監督作。台詞(せりふ)や場面を説明する無声映画特有の中間字幕を基本的には使わず、限られた登場人物と場面で人間の内面を描こうとする「室内劇映画」の代表作。
金モールのついた立派な制服で客を迎える高級ホテルの老ポーター(エミール・ヤニングス)は、高齢を理由に職を解かれ、洗面所の掃除人となる。仕事と制服に誇りを抱いていた老人が周囲の尊敬も失い、みすぼらしく余生を送るかに思われたそのとき、奇跡のような幸運に恵まれることになるのだった。
絶望的転落からの取って付けたようなハッピーエンドは製作者の意向と伝えられるが、その場面の直前に本作で唯一の中間字幕が使われる。失職というできごとが周囲へ波紋を広げ、人物の感情と態度が変化してゆく様子を緻密(ちみつ)に描いたムルナウの演出と、「解き放たれたカメラ」とよばれたカール・フロイントKarl Freund(1890―1969)の自在な撮影は世界的評価を受け、やがて二人はハリウッドへ活動の場を移すことになる。
[濱田尚孝]
『ジークフリート・クラカウアー著、平井正訳『カリガリからヒットラーまで』増補改訂版(1980・せりか書房)』▽『クルト・リース著、平井正他訳『ドイツ映画の偉大な時代――ただひとたびの』(1981・フィルムアート社)』▽『クラウス・クライマイアー著、平田達治他訳『ウーファ物語――ある映画コンツェルンの歴史』(2005・鳥影社)』▽『hrsg. von Gänter Dahlke und Günter KarlDeutsche Spielfilme von den Anfüngen bis 1933(1993, Henschel Verlag, Berlin)』
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最後の人
さいごのひと
Der Letzte Mann
ドイツ映画。ウーファ 1924年作品。監督フリードリッヒ・ウィルヘルム・ムルナウ。脚本カール・マイヤー。主演エミール・ヤニングス。主人公のホテルのドアマンは金モールの制服を誇りにして生きているが,老齢のため掃除夫にされてしまう。制服を失った彼は隣人たちから嘲笑され,絶望する。この作品は室内劇映画の頂点をなすもので,無字幕の無声映画だが,ムルナウはセットや照明の技術と,撮影者カール・フロイントのすぐれた移動撮影により,主人公の心理を克明に表現した。そして,最後にどんでん返しでハッピー・エンドにしてしまい,風刺をきかせている。
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世界大百科事典(旧版)内の最後の人の言及
【サイレント映画】より
…例えばフランスでは,アベル・ガンスが《鉄路の白薔薇》(1923)をつくり,グリフィスのモンタージュを視覚的なリズムによる心理的なモンタージュに発展させ,カール・ドライヤーは《裁かるるジャンヌ》(1928)で大胆なカメラアングルと,クローズアップを最大限に活用したモンタージュでそれまでの常識を破り,〈サイレント映画〉形式の一つの頂点を示した。また,ドイツ映画の黄金時代(古典時代)を代表するフリードリヒ・W.ムルナウの《最後の人》(1925)は,文学的な借物であるタイトル(字幕)を排除し,カメラを自由奔放に駆使して映画以外の手段では不可能な映画的表現を開拓した。映画を純視覚的な時間芸術に還元するドイツの〈絶対映画〉や,純粋に感性的で視覚的なリズムの芸術としてのフランスの〈純粋映画〉も現れた。…
【ポマー】より
…第1次大戦開戦後の1915年にデクラ社を設立し,表現主義映画の先駆的作品となったロベルト・ウィーネ監督《[カリガリ博士]》(1919),フリッツ・ラング監督《ドクトル・マブゼ》(1922)をつくった。23年にデクラ社がウーファ社に合併されたのちも,ラング監督《ニーベルンゲン》(1924),F.W.ムルナウ監督《最後の人》(1924),E.A.デュポン監督《ヴァリエテ》(1925),ヨーエ・マイ監督《アスファルト》(1929)などドイツ表現主義映画の代表作をはじめ,ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督《[嘆きの天使]》(1930),エリック・シャレル監督《会議は踊る》(1931)など,トーキー初期の重要な作品を製作,ハリウッドに対抗して,ベルリンを〈映画の首都〉とさえいわせたほどの勢いでドイツ映画の黄金時代を築き上げた。しかし,ナチスの台頭とともに他のユダヤ人芸術家と同様ドイツを去り,独立製作者としてパリ,ハリウッド,ロンドンをへて44年にアメリカ市民となったが,ハリウッドでの仕事はふるわず,46年,ドイツ映画復興のためアメリカ軍の司政官の資格でドイツへ出かけたのち,ふたたびハリウッドへ帰って死去した。…
【ムルナウ】より
… 戦後,ドイツに帰って1919年に監督としてスタート,イギリスの作家ブラム・ストーカーの小説《吸血鬼ドラキュラ》(1897)を映画化した《ノスフェラトゥ》(1922)で,様式化されたセットを使わずにロケーションで恐怖と怪奇感を描きだし,異色の表現主義映画として世界に衝撃をあたえた。次いで,《最後の人》(1924)は,〈文学からの借りもの〉である会話や説明の字幕をいっさい排除し,カメラを自由奔放に駆使して〈視覚的なことば〉で全編をつづった画期的な作品となった。しかし,つづく《タルチュフ》(1925)と《ファウスト》(1926)が興行的に失敗し,27年,ウィリアム・フォックスの招きでハリウッドに渡り(アメリカでは《最後の人》がサイレント映画の最高傑作と評価され,ヒットしていた),ドイツ時代からの協力者であるカール・マイヤーの脚本とフォックスの財政的な支持を得,大がかりなセットだけで,移動撮影による映像美が映画史上の語り草になっているサイレント映画の最高峰の一つ《サンライズ》(1927)をつくった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」