マイヤー(読み)まいやー(英語表記)Maria Goeppert Mayer

日本大百科全書(ニッポニカ) 「マイヤー」の意味・わかりやすい解説

マイヤー(Riched Meier)
まいやー
Richard Meier
(1934― )

アメリカの建築家。ニュー・ジャージー州ニューアークに生まれる。1957年にコーネル大学を卒業した後、SOM(スキッドモア、オーウィングズ&メリルSkidmore, Owings & Merrill)、マルセル・ブロイヤー事務所などで働いた。1963年に事務所をニューヨークに設立し建築活動を始めた。以後、住宅、集合住宅、医療施設、美術館、自治体庁舎など広範囲におよぶ設計活動を行う。

 マイヤーは、1972年に出版された建築家5人(P・アイゼンマン、M・グレイブズ、C・グワスミイCharles Gwathmey(1938―2009)、J・ヘイダック、R・マイヤー)の作品集『ファイブ・アーキテクツ』Five Architectsにより、注目を集め世界的に知られるようになった。この5人の作品の多くに、ル・コルビュジエのとくに初期の住宅にみられる、白い平滑な壁体を用いて建築空間を構成しようとする共通性があったため、彼らは「ホワイト派」とよばれた。

 初期のスミス邸(1967)では、ル・コルビュジエのドミノ型住宅(水平層状空間)とシトロアン型住宅(垂直層状空間)のコラージュによって、プライベートスペースとパブリックスペースとを分離した。以後、ダグラス邸(1973)ではその試みを発展させ、二つの領域を明確にしながらも両者の相互作用を生み出した。

 その後も、マイヤーは、現代建築の流行に左右されることなく、ほぼ一貫してエナメルパネルとガラスを用いて、白い幾何学的要素を組み合わせる作風を維持している。こうした創作態度は、盛期近代建築を一つの古典的様式と見なして、その洗練に活路を見いだそうとする態度と理解され、レイトモダニズムとよばれることもある。

 一方、マイヤーは与えられた設計条件によっては、レンガタイル、自然石などの建築材料も採用する。使用する形態要素も、直線と直方体に限定せず円弧や曲線など多様であり、部分的な平面座標軸の回転などの変形操作を構成に加えることも多い。こうした敷地と周囲のコンテクストに応じた柔軟な変形とその結果生み出される形態がもつ曖昧(あいまい)な性格から、マイヤーの設計姿勢をコンテクスチュアリズム(設計の際に敷地、あるいはその他のコンテクストを重視して発想する姿勢。モダニズムの教義が効力を減少した1970年代から注目されるようになった)と理解することもできる。おもな作品にブロンクス・ディベロップメンタル・センター(1970~1977、ニューヨーク)、アセニアム(1979、インディアナ州)、ハートフォード・セミナリー(1981、コネティカット州)、アトランタ美術館(1983)、フランクフルト工芸美術館(1985)、キャナル・プラス本社ビル(1992、パリ)、ハーグ市庁舎・図書館(1995)、バルセロナ現代美術館(1995)、ゲティ・センター(1997、ロサンゼルス)などがある。

 1984年にはプリツカー賞を、1989年にRIBA(英国王立建築家協会)のロイヤル・ゴールドメダルを受賞している。

[秋元 馨]

『Richard Meier, Joseph RykwertRichard Meier Architect Vol.1 (1984, Rizzoli, New York)』『Richard Meier, et al.Richard Meier Architect Vol.2 (1991, Rizzoli, New York)』『Richard Meier, Joseph Rykwert, Kenneth FramptonRichard Meier Architect Vol.3 (1999, Rizzoli, New York)』『「特集ホワイト アンド グレイ 現代アメリカの建築家11人」(『a+u』1975年4月号・エー・アンド・ユー)』『秋本馨著『現代建築のコンテクスチュアリズム入門――環境の中の建築/環境をつくる建築』(2002・彰国社)』『Museum of Modern Art ed.Five Architects; Eisenman, Graves, Gwathmey, Hejduk, Meier (1972, Wittenborr & Co, New York)』


マイヤー(Julius Robert von Mayer)
まいやー
Julius Robert von Mayer
(1814―1878)

ドイツの医者、物理学者。エネルギー保存則を最初に着想した一人。ハイルブロンに生まれ、チュービンゲン大学医学部で医学を学ぶが、1837年秘密学生組織に参加したことを理由に大学から追放された。1838年医師国家試験に合格して開業した。1840~1841年オランダ商船船医として熱帯地方に航海し、このときに船員からの採血が、温帯での採血より鮮やかな色をしていることに気づいた。これについて、人体内での酸素の消費によって得られる「力」(当時「力」は「エネルギー」をも意味する幅広い用法をされており、この場合は化学的エネルギーをさす)は、人体から発散する熱と人間の運動によって消費される熱の和であり、熱帯ではそのいずれの熱の消費も少なく、酸素の消費も少ないので血液が鮮やかになる、と考えた。「エネルギー」の転換と保存性を確信したマイヤーは帰国後に物理学と数学を学び、5か月目に論文を投稿したが、専門誌から掲載を拒否された。この論文では「エネルギー」にあたる力学的形式を決定できないでいたが、1842年の論文「非生物的自然の諸力について」では、その量が従来から力学で使われていたビス・ビバ(「活力」、現在の運動エネルギー)に相当することを述べ、さらに定積比熱と定圧比熱の比から熱の仕事当量を計算してみせた。論文は「原因は結果に等しい」という原則から導出されたような論述であったため、しばしば思弁的・形而上(けいじじょう)学的と評価されるが、それにとどまらない積極性をもっていた。1845年の第三論文では「すべての物理学的・化学的過程において、力は一定に保たれる」とし、ポテンシャル、運動、熱、電気、磁気、化学の各「力」の相互転化を、実験的例をあげ一般的に論じた。

 1850年、大衆紙において彼の先取権に疑問が出され、家族の不幸も重なって自殺を図ったが失敗、1852年以降、各地の病院を転々とし、1878年結核により死去した。

 マイヤーのエネルギー保存則の定式化における貢献については、ジュールとの先取権論争が行われたが、ヘルムホルツは1852年ごろマイヤーの先取権をいち早く認め、クラウジウスはマイヤーの一般的考察を高く評価し、またチンダルはマイヤーの影響を受けた。

[高山 進]


マイヤー(Kurt Heinrich Meyer)
まいやー
Kurt Heinrich Meyer
(1883―1952)

ドイツのちスイスで活躍した化学者。ロシアのドルパト(現、タルトゥ)に生まれる。おもにドイツで教育を受け、ライプツィヒ大学などで化学を研究、1907年学位を得、バイヤーに指導される有機化学学校に職を得た。初めケト‐エノール互変異性などの研究をしたが、1921年ドイツのBASF社に、次いで1926年イー・ゲー・ファルベンに勤め、若いH・F・マルクとともに高分子化学を研究、1928年セルロースの構造はグルコース基の長い鎖からなり、その連鎖は繊維軸に平行に規則正しく配列するとの説を提起した。この説はヘルツォークReginald Oliver Herzog(1878―1935)らの低分子説を引き継ぎながら、シュタウディンガーの高分子説に通じるもので、マルクとの共著『高重甲有機天然物の増成』Der Aufbau der hochpolymeren organischen Naturstoffe(1930)とともに高分子研究に大きな貢献をした。1932年、政治的圧迫からジュネーブ大学に移り、セルロース、キチン、溶液中の巨大分子の熱力学、ゴムとの比較における筋肉収縮などの研究を続けた。

[道家達將]


マイヤー(Julius Lothar Meyer)
まいやー
Julius Lothar Meyer
(1830―1895)

ドイツの化学者。チューリヒウュルツブルクで医学を学び、生理化学に転じてハイデルベルク等で学び、キルヒホッフらの影響で物理化学を研究した。ブレスラウ(現、ポーランド領ブロツワフ)大学、カールスルーエ工科大学等を経て、1876年よりチュービンゲン大学化学教授。1860年のカールスルーエ国際化学者会議でのカニッツァーロの原子量の論文を基礎に1862年最初の元素の分類を行い、1868年さらにこれを発展させて元素の周期系に近づいた。1869年3月のメンデレーエフの最初の周期表に刺激されて同年末、原子容の原子量に対する周期的変化を示した有名なグラフを提出しメンデレーエフの意想の発展を促進し、個々の点で周期表に改善をもたらした。5版を重ねた彼の著『化学の近代的理論』(1864年初版)は化学の基礎原理普及に大きく貢献した。前述の元素分類もこの書の執筆や改訂中に行ったものである。ほかに血中ガス、ベンゼンの置換反応、有機化合物の構造と沸点の関係などの研究がある。

[梶 雅範]


マイヤー(Viktor Meyer)
まいやー
Viktor Meyer
(1848―1897)

ドイツの有機化学者。ベルリン生まれ。1867年ハイデルベルク大学で博士号を取得。1870年シュトゥットガルト工科大学、1872年チューリヒ工科大学、1885年ゲッティンゲン大学と化学教授を歴任し、1889年ブンゼンの後任としてハイデルベルク大学教授となり晩年に至る。有毒気体を長期間用いたことが災いして健康を損ない、うつ病に襲われ、1897年青酸化合物を飲んで自殺した。

 気体研究の第一人者であり、分子量の決定には欠くことのできない蒸気密度測定法(ビクトル・マイヤー法)を実験的に確立したことがもっとも有名である。弟子のカルル・ランゲルCarl Langer(1859―1935)との共著『花火技術研究』Pyrochemische Untersuchungen(1885)では、高温下の気体の蒸気密度を測定するという難題を解決した。また複素環式化合物チオフェンの単離でも知られる。彼の蒸気密度研究は『有機化学教科書』2巻Lehrbuch der organischen Chemie, 2(1893~1903)にまとめられている。

[井山弘幸]


マイヤー(Otto Mayer)
まいやー
Otto Mayer
(1846―1924)

ドイツの代表的行政法学者。ライプツィヒ大学教授。シュトラスブルク大学の私講師として行政法の研究を始め、ドイツより進んでいたフランス行政法を究明し、それをドイツに再生する意図のもとに『フランス行政法理論』(1886)を公刊し、やがてラーバントPaul Laband(1838―1918)らの実証主義的公法学の法学的方法を用いて、『ドイツ行政法論』(初版1895~1896、3版1924)を完成した。行政法は公法として私人と国家の関係に関する特殊な法であると規定して、行政行為、特別権力関係、公法上の損失補償などの法概念を構成し、これによって従来の行政学的方法から解放された法学的方法による行政法学を確立し、ドイツ行政法学の基礎を築いた。

 彼が構成した法概念は、最近まで日本の行政法学の基礎概念とされていたということからも明らかなように、日本の行政法学の発展に与えた影響は大きく、その理論的基礎はマイヤーにあるといってもよい。「憲法は変わるけれども行政法は変わらない」という有名なことばは、『ドイツ行政法論』(3版)の序文で述べられたものである。

[池田政章]


マイヤー(Max Ernst Mayer)
まいやー
Max Ernst Mayer
(1875―1923)

ユダヤ系ドイツ人の刑法学者、法哲学者。新カント学派の哲学の影響を強く受け、刑法と法哲学にその方法論を応用した。法哲学の分野での主著は、1903年に発行された『法規範と文化規範』、1922年の『法哲学』であり、彼はここで、価値は一定の文化状態に依存するという価値相対主義を展開するとともに、法規Gesetzの制定によって国家的に承認された文化規範Kulturnormを法規範Rechtsnormとする規範論を主張した。この方法を刑法学に応用し、1919年に出版した『ドイツ刑法総則』では、ベーリングErnst Beling(1866―1932)によって創唱された構成要件論をさらに発展させた。マイヤーによれば、犯罪概念の出発点は無限定の混沌(こんとん)たる「できごと」であり、違法性の認識根拠である「法定構成要件」に該当することが明らかになって初めて、それは刑法学的に整序され、違法評価が可能になってくるとされる。この構成要件論は、小野清一郎、滝川幸辰(たきがわゆきとき)らを通じ、日本にも強い影響を及ぼした。

[西原春夫]


マイヤー(Conrad Ferdinand Meyer)
まいやー
Conrad Ferdinand Meyer
(1825―1898)

ドイツ語圏スイスの詩人、小説家。チューリヒの門閥家系に生まれるが、父の死後敬虔(けいけん)なカルバン主義の信仰をもつ母親によって厳しい教育を受け、繊細で夢想的な素地を生かすことができず、自殺の衝動を伴う神経症に悩む不幸な青年期を過ごした。母親の自殺(1856)を契機としてようやく自己回復の端緒をつかんだ彼は、イタリア旅行におけるミケランジェロ体験によって、心理的葛藤(かっとう)の視覚的表出という課題をみいだすとともに、ドイツの文芸理論家テオドール・フィッシャーのリアリズム理論の導きのもとに、独自の詩的表現の模索を続けた。

 1871年叙事詩『フッテン最後の日々』が時代の政治的状況に投じて成功を収めたのち、20年間に11編の小説を発表したが、いずれもルネサンス、バロック期に取材した歴史小説であり、孤絶した歴史的形姿(トーマス・ベケット、グスタフ・アドルフ、ダンテなど)の内面を象徴的に描き出している。一方『詩集』(1882)では、ロマン派以来の豊かな詩的形象を堅固な言語形式に盛り込むことに成功し、ゲオルゲ、ホフマンスタールに始まる現代ドイツ詩の先駆をなしている。

[白崎嘉昭]

『高安国世訳『マイヤァ抒情詩集』(岩波文庫)』『浅井真男訳『フッテン最後の日々』(岩波文庫)』『C・F・マイヤー、J・ゴットヘルフ他著、スイス文学研究会編訳『スイス十九世紀短編集』(1978・早稲田大学出版部)』


マイヤー(Sabine Meyer)
まいやー
Sabine Meyer
(1960― )

ドイツの女流クラリネット奏者。シュトゥットガルトで学んだのち、ハノーバーで名手ハンス・ダインツァーHans Deinzerに師事、1979年ボンで行われたドイツ音楽コンクールに入賞して名をあげた。81年バイエルン放送交響楽団の第一クラリネット奏者。翌年カラヤンからベルリン・フィルハーモニーに呼ばれたが、楽員の反対で入団は実現せず、話題となった。83年(昭和58)初来日。その響きは群を抜いて美しく、独奏者、室内楽奏者としての大成を強く印象づけた。80年代末からは、ザビーネ・マイヤー管楽アンサンブルのリーダーとしても活躍。

[岩井宏之]


マイヤー(Eduard Meyer)
まいやー
Eduard Meyer
(1855―1930)

ドイツの古代史家。ハンブルクに生まれる。ボン大学、ライプツィヒ大学に学ぶ。1889年からハレ大学教授。1902年からはベルリン大学教授(~1923)。その研究はエジプト史、ヘブライ史、ギリシア史、ローマ史、初期キリスト教史と多方面にわたり、これらの従来孤立して扱われていた古代史の諸分野を相互に関連づけ、一つの普遍的枠組みのなかで考察した。その主著『古代史』(五巻・1884~1902)は、精緻(せいち)な実証研究に基づいた概説書で、政治、社会、精神文化の諸領域にまたがり、とくにそのなかでもっとも大部を占めるギリシア史の叙述は、今日なお高い学問的価値を有する。ローマ史の研究では『カエサルの君主制とポンペイウスの元首制』(1918)、キリスト教史では『キリスト教の起源と初期史』(三巻・1921~23)、エジプト史については『エジプト年代学』(1904)があり、そのほか歴史の理論と方法についての論文(『小論文集』二巻・1910~25・所収)もある。マイヤーは、その専門領域の広さ、穏健な批判的・実証的研究態度、またその業績の大きさで、20世紀初めヨーロッパでの古代史研究者の間で卓越した地位を占める。

[木谷 勤]


マイヤー(Theodor Mayer)
まいやー
Theodor Mayer
(1883―1972)

ドイツの中世史家。上オーストリアのノイキルヘに生まれる。ウィーン大学の中世史家ドープシュの下で学び、プラハ、ギーセン、フライブルク、マールブルク各大学の教授を歴任。有名なドイツ中世史料集『モヌメンタ・ゲルマニアエ・ヒストリカ』の編纂(へんさん)所総裁をも務めた。すでに第二次世界大戦前、中世後期のドイツ領邦国家の成立に関連して、いわゆる「開墾自由人」学説を提唱し、学界の注目を受けたが、戦後教職を引退したのちは、「コンスタンツ中世史研究グループ」を組織し、H・ダンネンバウアーなどの学者と協力して、戦前の学説の考え方を中世前期の自由人の問題にまで広げ、「国王自由人」学説を精力的に展開して、ヨーロッパ中世史の研究に新生面を開いた。

[平城照介]


マイヤー(Adolf Meyer)
まいやー
Adolf Meyer
(1866―1950)

アメリカの精神病学者。スイスのチューリヒ近くニーダーワイニンゲン生まれ。1889年チューリヒ大学を卒業。のちパリ、ロンドン、エジンバラ、ウィーン、ベルリンに遊学し、1892年「2~3の爬虫(はちゅう)類の前脳について」で学位を得た。同年アメリカに渡り、シカゴ大学助手となり、1904年コーネル大学教授、1910年ジョンズ・ホプキンズ大学教授、1913年ジョンズ・ホプキンズ病院ヘンリー・フィップス精神病診療所長に就任。精神生物学説に基づく行動主義と内省との中間の精神学説を主張し、心理現象を、脳幹に発する本能的現象のより高度な、より複雑な昇華と考え、アメリカの精神病学に大きな影響を及ぼした。

[大鳥蘭三郎]


マイヤー(Maria Goeppert Mayer)
まいやー
Maria Goeppert Mayer

メイヤー

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