アメリカの建築家。ニュー・ジャージー州ニューアークに生まれる。1957年にコーネル大学を卒業した後、SOM(スキッドモア、オーウィングズ&メリルSkidmore, Owings & Merrill)、マルセル・ブロイヤー事務所などで働いた。1963年に事務所をニューヨークに設立し建築活動を始めた。以後、住宅、集合住宅、医療施設、美術館、自治体庁舎など広範囲におよぶ設計活動を行う。
マイヤーは、1972年に出版された建築家5人(P・アイゼンマン、M・グレイブズ、C・グワスミイCharles Gwathmey(1938―2009)、J・ヘイダック、R・マイヤー)の作品集『ファイブ・アーキテクツ』Five Architectsにより、注目を集め世界的に知られるようになった。この5人の作品の多くに、ル・コルビュジエのとくに初期の住宅にみられる、白い平滑な壁体を用いて建築空間を構成しようとする共通性があったため、彼らは「ホワイト派」とよばれた。
初期のスミス邸(1967)では、ル・コルビュジエのドミノ型住宅(水平層状空間)とシトロアン型住宅(垂直層状空間)のコラージュによって、プライベートスペースとパブリックスペースとを分離した。以後、ダグラス邸(1973)ではその試みを発展させ、二つの領域を明確にしながらも両者の相互作用を生み出した。
その後も、マイヤーは、現代建築の流行に左右されることなく、ほぼ一貫してエナメルパネルとガラスを用いて、白い幾何学的要素を組み合わせる作風を維持している。こうした創作態度は、盛期近代建築を一つの古典的様式と見なして、その洗練に活路を見いだそうとする態度と理解され、レイトモダニズムとよばれることもある。
一方、マイヤーは与えられた設計条件によっては、レンガタイル、自然石などの建築材料も採用する。使用する形態要素も、直線と直方体に限定せず円弧や曲線など多様であり、部分的な平面座標軸の回転などの変形操作を構成に加えることも多い。こうした敷地と周囲のコンテクストに応じた柔軟な変形とその結果生み出される形態がもつ曖昧(あいまい)な性格から、マイヤーの設計姿勢をコンテクスチュアリズム(設計の際に敷地、あるいはその他のコンテクストを重視して発想する姿勢。モダニズムの教義が効力を減少した1970年代から注目されるようになった)と理解することもできる。おもな作品にブロンクス・ディベロップメンタル・センター(1970~1977、ニューヨーク)、アセニアム(1979、インディアナ州)、ハートフォード・セミナリー(1981、コネティカット州)、アトランタ美術館(1983)、フランクフルト工芸美術館(1985)、キャナル・プラス本社ビル(1992、パリ)、ハーグ市庁舎・図書館(1995)、バルセロナ現代美術館(1995)、ゲティ・センター(1997、ロサンゼルス)などがある。
1984年にはプリツカー賞を、1989年にRIBA(英国王立建築家協会)のロイヤル・ゴールドメダルを受賞している。
[秋元 馨]
『Richard Meier, Joseph RykwertRichard Meier Architect Vol.1 (1984, Rizzoli, New York)』▽『Richard Meier, et al.Richard Meier Architect Vol.2 (1991, Rizzoli, New York)』▽『Richard Meier, Joseph Rykwert, Kenneth FramptonRichard Meier Architect Vol.3 (1999, Rizzoli, New York)』▽『「特集ホワイト アンド グレイ 現代アメリカの建築家11人」(『a+u』1975年4月号・エー・アンド・ユー)』▽『秋本馨著『現代建築のコンテクスチュアリズム入門――環境の中の建築/環境をつくる建築』(2002・彰国社)』▽『Museum of Modern Art ed.Five Architects; Eisenman, Graves, Gwathmey, Hejduk, Meier (1972, Wittenborr & Co, New York)』
ドイツの医者、物理学者。エネルギー保存則を最初に着想した一人。ハイルブロンに生まれ、チュービンゲン大学医学部で医学を学ぶが、1837年秘密学生組織に参加したことを理由に大学から追放された。1838年医師国家試験に合格して開業した。1840~1841年オランダ商船船医として熱帯地方に航海し、このときに船員からの採血が、温帯での採血より鮮やかな色をしていることに気づいた。これについて、人体内での酸素の消費によって得られる「力」(当時「力」は「エネルギー」をも意味する幅広い用法をされており、この場合は化学的エネルギーをさす)は、人体から発散する熱と人間の運動によって消費される熱の和であり、熱帯ではそのいずれの熱の消費も少なく、酸素の消費も少ないので血液が鮮やかになる、と考えた。「エネルギー」の転換と保存性を確信したマイヤーは帰国後に物理学と数学を学び、5か月目に論文を投稿したが、専門誌から掲載を拒否された。この論文では「エネルギー」にあたる力学的形式を決定できないでいたが、1842年の論文「非生物的自然の諸力について」では、その量が従来から力学で使われていたビス・ビバ(「活力」、現在の運動エネルギー)に相当することを述べ、さらに定積比熱と定圧比熱の比から熱の仕事当量を計算してみせた。論文は「原因は結果に等しい」という原則から導出されたような論述であったため、しばしば思弁的・形而上(けいじじょう)学的と評価されるが、それにとどまらない積極性をもっていた。1845年の第三論文では「すべての物理学的・化学的過程において、力は一定に保たれる」とし、ポテンシャル、運動、熱、電気、磁気、化学の各「力」の相互転化を、実験的例をあげ一般的に論じた。
1850年、大衆紙において彼の先取権に疑問が出され、家族の不幸も重なって自殺を図ったが失敗、1852年以降、各地の病院を転々とし、1878年結核により死去した。
マイヤーのエネルギー保存則の定式化における貢献については、ジュールとの先取権論争が行われたが、ヘルムホルツは1852年ごろマイヤーの先取権をいち早く認め、クラウジウスはマイヤーの一般的考察を高く評価し、またチンダルはマイヤーの影響を受けた。
[高山 進]
ドイツのちスイスで活躍した化学者。ロシアのドルパト(現、タルトゥ)に生まれる。おもにドイツで教育を受け、ライプツィヒ大学などで化学を研究、1907年学位を得、バイヤーに指導される有機化学学校に職を得た。初めケト‐エノール互変異性などの研究をしたが、1921年ドイツのBASF社に、次いで1926年イー・ゲー・ファルベンに勤め、若いH・F・マルクとともに高分子化学を研究、1928年セルロースの構造はグルコース基の長い鎖からなり、その連鎖は繊維軸に平行に規則正しく配列するとの説を提起した。この説はヘルツォークReginald Oliver Herzog(1878―1935)らの低分子説を引き継ぎながら、シュタウディンガーの高分子説に通じるもので、マルクとの共著『高重甲有機天然物の増成』Der Aufbau der hochpolymeren organischen Naturstoffe(1930)とともに高分子研究に大きな貢献をした。1932年、政治的圧迫からジュネーブ大学に移り、セルロース、キチン、溶液中の巨大分子の熱力学、ゴムとの比較における筋肉収縮などの研究を続けた。
[道家達將]
ドイツの化学者。チューリヒ、ウュルツブルクで医学を学び、生理化学に転じてハイデルベルク等で学び、キルヒホッフらの影響で物理化学を研究した。ブレスラウ(現、ポーランド領ブロツワフ)大学、カールスルーエ工科大学等を経て、1876年よりチュービンゲン大学化学教授。1860年のカールスルーエ国際化学者会議でのカニッツァーロの原子量の論文を基礎に1862年最初の元素の分類を行い、1868年さらにこれを発展させて元素の周期系に近づいた。1869年3月のメンデレーエフの最初の周期表に刺激されて同年末、原子容の原子量に対する周期的変化を示した有名なグラフを提出しメンデレーエフの意想の発展を促進し、個々の点で周期表に改善をもたらした。5版を重ねた彼の著『化学の近代的理論』(1864年初版)は化学の基礎原理普及に大きく貢献した。前述の元素分類もこの書の執筆や改訂中に行ったものである。ほかに血中ガス、ベンゼンの置換反応、有機化合物の構造と沸点の関係などの研究がある。
[梶 雅範]
ドイツの有機化学者。ベルリン生まれ。1867年ハイデルベルク大学で博士号を取得。1870年シュトゥットガルト工科大学、1872年チューリヒ工科大学、1885年ゲッティンゲン大学と化学教授を歴任し、1889年ブンゼンの後任としてハイデルベルク大学教授となり晩年に至る。有毒気体を長期間用いたことが災いして健康を損ない、うつ病に襲われ、1897年青酸化合物を飲んで自殺した。
気体研究の第一人者であり、分子量の決定には欠くことのできない蒸気密度測定法(ビクトル・マイヤー法)を実験的に確立したことがもっとも有名である。弟子のカルル・ランゲルCarl Langer(1859―1935)との共著『花火技術研究』Pyrochemische Untersuchungen(1885)では、高温下の気体の蒸気密度を測定するという難題を解決した。また複素環式化合物チオフェンの単離でも知られる。彼の蒸気密度研究は『有機化学教科書』2巻Lehrbuch der organischen Chemie, 2(1893~1903)にまとめられている。
[井山弘幸]
ドイツの代表的行政法学者。ライプツィヒ大学教授。シュトラスブルク大学の私講師として行政法の研究を始め、ドイツより進んでいたフランス行政法を究明し、それをドイツに再生する意図のもとに『フランス行政法理論』(1886)を公刊し、やがてラーバントPaul Laband(1838―1918)らの実証主義的公法学の法学的方法を用いて、『ドイツ行政法論』(初版1895~1896、3版1924)を完成した。行政法は公法として私人と国家の関係に関する特殊な法であると規定して、行政行為、特別権力関係、公法上の損失補償などの法概念を構成し、これによって従来の行政学的方法から解放された法学的方法による行政法学を確立し、ドイツ行政法学の基礎を築いた。
彼が構成した法概念は、最近まで日本の行政法学の基礎概念とされていたということからも明らかなように、日本の行政法学の発展に与えた影響は大きく、その理論的基礎はマイヤーにあるといってもよい。「憲法は変わるけれども行政法は変わらない」という有名なことばは、『ドイツ行政法論』(3版)の序文で述べられたものである。
[池田政章]
ユダヤ系ドイツ人の刑法学者、法哲学者。新カント学派の哲学の影響を強く受け、刑法と法哲学にその方法論を応用した。法哲学の分野での主著は、1903年に発行された『法規範と文化規範』、1922年の『法哲学』であり、彼はここで、価値は一定の文化状態に依存するという価値相対主義を展開するとともに、法規Gesetzの制定によって国家的に承認された文化規範Kulturnormを法規範Rechtsnormとする規範論を主張した。この方法を刑法学に応用し、1919年に出版した『ドイツ刑法総則』では、ベーリングErnst Beling(1866―1932)によって創唱された構成要件論をさらに発展させた。マイヤーによれば、犯罪概念の出発点は無限定の混沌(こんとん)たる「できごと」であり、違法性の認識根拠である「法定構成要件」に該当することが明らかになって初めて、それは刑法学的に整序され、違法評価が可能になってくるとされる。この構成要件論は、小野清一郎、滝川幸辰(たきがわゆきとき)らを通じ、日本にも強い影響を及ぼした。
[西原春夫]
ドイツ語圏スイスの詩人、小説家。チューリヒの門閥家系に生まれるが、父の死後敬虔(けいけん)なカルバン主義の信仰をもつ母親によって厳しい教育を受け、繊細で夢想的な素地を生かすことができず、自殺の衝動を伴う神経症に悩む不幸な青年期を過ごした。母親の自殺(1856)を契機としてようやく自己回復の端緒をつかんだ彼は、イタリア旅行におけるミケランジェロ体験によって、心理的葛藤(かっとう)の視覚的表出という課題をみいだすとともに、ドイツの文芸理論家テオドール・フィッシャーのリアリズム理論の導きのもとに、独自の詩的表現の模索を続けた。
1871年叙事詩『フッテン最後の日々』が時代の政治的状況に投じて成功を収めたのち、20年間に11編の小説を発表したが、いずれもルネサンス、バロック期に取材した歴史小説であり、孤絶した歴史的形姿(トーマス・ベケット、グスタフ・アドルフ、ダンテなど)の内面を象徴的に描き出している。一方『詩集』(1882)では、ロマン派以来の豊かな詩的形象を堅固な言語形式に盛り込むことに成功し、ゲオルゲ、ホフマンスタールに始まる現代ドイツ詩の先駆をなしている。
[白崎嘉昭]
『高安国世訳『マイヤァ抒情詩集』(岩波文庫)』▽『浅井真男訳『フッテン最後の日々』(岩波文庫)』▽『C・F・マイヤー、J・ゴットヘルフ他著、スイス文学研究会編訳『スイス十九世紀短編集』(1978・早稲田大学出版部)』
ドイツの女流クラリネット奏者。シュトゥットガルトで学んだのち、ハノーバーで名手ハンス・ダインツァーHans Deinzerに師事、1979年ボンで行われたドイツ音楽コンクールに入賞して名をあげた。81年バイエルン放送交響楽団の第一クラリネット奏者。翌年カラヤンからベルリン・フィルハーモニーに呼ばれたが、楽員の反対で入団は実現せず、話題となった。83年(昭和58)初来日。その響きは群を抜いて美しく、独奏者、室内楽奏者としての大成を強く印象づけた。80年代末からは、ザビーネ・マイヤー管楽アンサンブルのリーダーとしても活躍。
[岩井宏之]
ドイツの古代史家。ハンブルクに生まれる。ボン大学、ライプツィヒ大学に学ぶ。1889年からハレ大学教授。1902年からはベルリン大学教授(~1923)。その研究はエジプト史、ヘブライ史、ギリシア史、ローマ史、初期キリスト教史と多方面にわたり、これらの従来孤立して扱われていた古代史の諸分野を相互に関連づけ、一つの普遍的枠組みのなかで考察した。その主著『古代史』(五巻・1884~1902)は、精緻(せいち)な実証研究に基づいた概説書で、政治、社会、精神文化の諸領域にまたがり、とくにそのなかでもっとも大部を占めるギリシア史の叙述は、今日なお高い学問的価値を有する。ローマ史の研究では『カエサルの君主制とポンペイウスの元首制』(1918)、キリスト教史では『キリスト教の起源と初期史』(三巻・1921~23)、エジプト史については『エジプト年代学』(1904)があり、そのほか歴史の理論と方法についての論文(『小論文集』二巻・1910~25・所収)もある。マイヤーは、その専門領域の広さ、穏健な批判的・実証的研究態度、またその業績の大きさで、20世紀初めヨーロッパでの古代史研究者の間で卓越した地位を占める。
[木谷 勤]
ドイツの中世史家。上オーストリアのノイキルヘに生まれる。ウィーン大学の中世史家ドープシュの下で学び、プラハ、ギーセン、フライブルク、マールブルク各大学の教授を歴任。有名なドイツ中世史料集『モヌメンタ・ゲルマニアエ・ヒストリカ』の編纂(へんさん)所総裁をも務めた。すでに第二次世界大戦前、中世後期のドイツ領邦国家の成立に関連して、いわゆる「開墾自由人」学説を提唱し、学界の注目を受けたが、戦後教職を引退したのちは、「コンスタンツ中世史研究グループ」を組織し、H・ダンネンバウアーなどの学者と協力して、戦前の学説の考え方を中世前期の自由人の問題にまで広げ、「国王自由人」学説を精力的に展開して、ヨーロッパ中世史の研究に新生面を開いた。
[平城照介]
アメリカの精神病学者。スイスのチューリヒ近くニーダーワイニンゲン生まれ。1889年チューリヒ大学を卒業。のちパリ、ロンドン、エジンバラ、ウィーン、ベルリンに遊学し、1892年「2~3の爬虫(はちゅう)類の前脳について」で学位を得た。同年アメリカに渡り、シカゴ大学助手となり、1904年コーネル大学教授、1910年ジョンズ・ホプキンズ大学教授、1913年ジョンズ・ホプキンズ病院ヘンリー・フィップス精神病診療所長に就任。精神生物学説に基づく行動主義と内省との中間の精神学説を主張し、心理現象を、脳幹に発する本能的現象のより高度な、より複雑な昇華と考え、アメリカの精神病学に大きな影響を及ぼした。
[大鳥蘭三郎]
スイスの詩人,小説家。チューリヒの富裕なプロテスタントの家庭に生まれ,15歳のとき父を失う。繊細な感受性と抑うつ症的性格のために,社会への適応能力を欠き,さらに誇り高い母との間の葛藤と自己の才能に対する自信喪失の悩みが高じて1852年に精神病院に数ヵ月入院した。56年に母が抑うつ症の発作から入水自殺し,衝撃を受けたが,同時にそれは古い束縛からの解放でもあった。経済的心配がなかったため,もともと貴族主義的性向の彼は,現実社会に背を向け,歴史と芸術の世界に自己の実存の根拠を見いだそうとした。ミケランジェロに私淑して厳格な形式美を追究し,《フッテン最後の日々Huttens letzte Tage》(1871)によって詩人としての名声を得た。50歳で結婚し,娘も誕生して,生活に自信が生まれ,妻の内助の功により,豊かな創造期をむかえた。マイヤーの詩は,しばしば〈言語による彫刻〉と呼ばれる。たとえば《ローマの噴水》《ふたつの帆》にみられるように,整った形式,客観的な描写,言葉の象徴性が彼の詩の特徴で,この意味でマイヤーは,ゲオルゲ,リルケの先駆となった詩人である。彼は好んで歴史に題材をとったが,自己の主観と個性を直截に表現するにはそれが最適だと考えたためである。小説には,《ユルク・イェナッチュ》(1874),《説教壇からの発砲》(1877),《聖者》(1879),《尼僧院のプラウトゥス》(1881),《僧の婚礼》(1884),《ペスカラの誘惑》(1887)などの代表作がある。マイヤーは生涯ひそかに発狂をおそれつづけてきたが,ついに92年に再び精神病院に入院,約1年後に退院したが,もはや創作の筆をとることはできなかった。
執筆者:増田 義男
ドイツの医者,物理学者。ハイルブロンの生れ。チュービンゲン大学で医学を学ぶ。1838年学位を取得した後,パリで勉強を続け,40年2月から41年2月までオランダの帆船に船医として乗り組んだ。この間,熱帯で水夫の瀉血(しやけつ)をした際,静脈血が寒冷地の場合に比べて鮮やかな色をしているのに気づき,体内での燃焼過程と体温の発生との関係について考えをめぐらし,エネルギー保存則の発見に至る着想を固めた。すなわち,動物熱が食物の酸化によって生み出されるというラボアジエの理論に強く印象づけられていた彼は,身体が仕事をする場合に生ずる熱もやはり摂取した食物に起源をもつとの仮定に立ち,熱と仕事は相互に転換可能だという着想を得たのである。
ハイルブロンに帰って最初に書いた論文は,不備もあって掲載を拒否されたが,翌42年の《無生命的自然の諸力についての覚え書》と題する論文はリービヒの編集していた《化学薬学年報》に掲載された。この中で彼は熱と仕事との相互転換とそれらの間の量的な保存がエネルギー(当時は〈力〉と呼ばれていた)のあらゆる形態に適用されうるということを強調したばかりでなく,ゲイ・リュサックの行った実験に基づいて,気体の体積変化と温度変化との関係から熱の仕事当量を計算したのであった。その後,45年の自費出版の論文《生物の運動と物質代謝との関連》および48年のやはり自費出版の論文《天体力学への寄与》においてもエネルギー保存則を展開した。しかしながら彼の論文は学界の注目を集めるには至らず,正当な評価を得ることができたのは,J.ティンダルらがその真価を明らかにしてからで,60年代に入ってからのことであった。
執筆者:山口 宙平
ドイツの公法学者。はじめ弁護士として実務に携わったが,後に大学教授の資格を得て,シュトラスブルク大学,ライプチヒ大学の教授となった。近代ドイツの行政法学の創始者である。それまでドイツの行政法学は,個別の行政分野の法令を記述するにとどまる国家学的方法によっていたが,マイヤーはフランス行政法に刺激をうけつつ,法学的方法によって,行政主体と私人の法律的関係を体系的に基礎づけた。彼の構成した行政法学上の概念である法律の支配,行政行為,特別権力関係,営造物等は,その法学的方法とともに,後のドイツ行政法学の基礎となった。明治憲法のもとにおける日本の行政法学にも大きな影響を与えた。主著に《フランス行政法の理論》(1886)と《ドイツ行政法》(1,2巻)(第1版1895年,第2版1914年,第3版1924年)がある。ワイマール憲法制定後に公刊された《ドイツ行政法》(第3版)の序文に記された〈憲法は滅びる,行政法は存続する〉という言葉は,行政法の性質の一面を描いたものとして,著名である。
執筆者:塩野 宏
ドイツ生れのアメリカの動物分類学者,進化生物学者。1926年にベルリン大学で博士号を得た後,同大学動物学博物館の助手となり,28-30年にかけてニューギニアとソロモン諸島で鳥類調査を行う。32年にアメリカに渡り,53年までアメリカ自然史博物館に籍を置く。その間に膨大な数の鳥類標本を研究し,生物学的種の概念と種分化における地理的隔離の重要性に思い至る。そのような考えをまとめた《系統分類学と種の起源》(1942)は,いわゆる進化の総合説が誕生するうえで重要な役割を果たした。53年にはハーバード大学比較動物学博物館の教授となり,61-70年には同館長を務め,75年からは同名誉教授。1963年に発表した大著《動物の種と進化》では分布域の周辺部における種分化の重要性を強調し,総合説を確立したが,遺伝学中心の進化学者とは異なる幅広い視野で現代進化論者の中でも独自の位置を占めている。引退後は科学史研究に転じて,大著《生物学思想の発展》(1982)を著した。
執筆者:浦本 昌紀+渡辺 政隆
ドイツの化学者。チューリヒとビュルツブルクで医学を修め,ハイデルベルクでR.W.ブンゼンに化学を,ケーニヒスベルクでノイマンF.E.Neumann(1798-1895)に数理物理学を学んだ。ブレスラウ,カールスルーエなどで教えた後,1876年より死ぬまでチュービンゲン大学に勤めた。S.カニッツァーロの原子量を用い,原子量差と原子価に注目して元素の分類を早くより試み(1862,1868年),1869年3月のD.I.メンデレーエフの元素分類に刺激され元素族の主族・亜族関係を明示した表と,元素の性質の原子量に対する周期的変化をグラフ化した原子容曲線を含む論文を同年12月に提出した。彼の教科書《化学の現代理論》(初版1864,第5版1884)は広く読まれ,アボガドロの仮説,周期律を含め化学理論の普及に貢献した。ほかに血液中のガス吸収に関する先駆的仕事や,化合物の物理的諸性質に関する多くの研究がある。
執筆者:梶 雅範
ドイツの有機化学者。ベルリン生れ。ベルリン大学に入ったがハイデルベルク大学に転じ,R.W.ブンゼンに分析化学を学び,18歳で学位取得,ベルリンに戻りJ.F.W.A.vonバイヤーのもとで有機化学の研究に携わった。チューリヒ工科大学,ゲッティンゲン大学,ハイデルベルク大学の教授を歴任。気体分子量測定法として有名な〈ビクトル・マイヤー法〉の考案(1878),オキシム生成の反応(1882),チオフェンの発見(1883),〈立体化学stereochemistry〉という用語の提唱(1888),オルトに置換基を有する安息香酸がエステル化しにくいことを発見して〈立体障害〉と呼ぶなど(1894),化学の発展に大きな影響を及ぼしたが,病弱のため自殺した。
執筆者:岩田 敦子
アメリカ精神医学の中心的精神科医で,精神生物学の提唱者。スイスに生まれ,チューリヒ大学卒業後,パリ,ロンドンに学び,C.ダーウィンやJ.H.ジャクソンの影響を受けた。1892年に渡米し,神経病理学を担当するとともに精神科臨床に従事した。コーネル大学教授を経て1910年ジョンズ・ホプキンズ大学教授,13年同大ヘンリー・フィップス病院初代院長となり,41年引退した。クレペリンをアメリカに紹介し,S.フロイトの精神分析を評価はしたが同調はしなかった。精神障害を不適応反応として生物,心理,社会の各側面を総合して全体的にみるべきであるとし,精神衛生運動を推進した。
執筆者:浅井 昌弘
ドイツの錬金術師。パラケルススを信奉する医者で哲学者でもある。ドイツの二,三の大学,さらにイタリアのパドバにも3年間学び,のち多くの学者でにぎわうプラハの神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の居城に伺候し,そこで侍医もつとめた。イギリス,スウェーデンなど広く旅し,薔薇(ばら)十字団に似た結社を設立し,象徴的で珍奇な挿絵入りのなぞめいた数種の金属変成書を著した。
執筆者:大槻 真一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ドイツの有機化学者.ベルリンに生まれる.ハイデルベルク大学で化学を学び,18歳で学位を取得後,R.W.E. Bunsen(ブンゼン)の助手,さらに1868年ベルリン大学のJ.F.W.A.von Baeyer(バイヤー)の助手となった.1872年チューリヒ工科大学教授,1885年ゲッチンゲン大学教授となり,1889年ハイデルベルク大学教授となった.ベンゼン環にカルボキシル基を導入する方法や,サリチル酸がオルト誘導体であることを発見し,ニトロメタンをはじめて合成し(1872年),また脂肪酸ニトロ化合物が還元によってアミンになることを示した.そのほか,ヒドロキシルアミンとアルデヒド,ケトンからオキシムを合成し(1882年),ベンゼンの呈色反応を研究中にチオフェンを発見した(1882年).立体化学という名称を提案し,反応に及ぼす立体障害の影響を論じたのもかれが最初である.また,蒸気密度測定装置を発明した.晩年は病に苦しみ,うつ病から自殺した.
ドイツの化学者.はじめ医学を学び,1854年ビュルツブルク大学で医学博士号を取得.生理化学に転じてハイデルベルク大学のR.W.E. Bunsen(ブンゼン)のもとで学び,ブレスラウ大学で1858年に哲学博士号を取得.同大学,ノイシュタット-エベルスバルデ林業学校,カールスルーエ工科大学を経て,1876年よりチュービンゲン大学化学教授.1860年カールスルーエで開かれた史上初の国際化学者会議に参加し,配布されたS. Cannizzaro(カニッツァーロ)の原子量の論文を基礎に,1864年最初の元素分類を行い,1868年さらにこれを発展させて元素の周期表に近づいた.1869年3月のD.I. Mendeleev(メンデレーエフ)の最初の周期表に刺激されて,同年末,原子容の原子量に対する周期的変化を示した有名なグラフを提出し,さらに周期表を改良した.第5版を重ねたかれの主著“化学の近代的理論”(1864年初版)は化学の基礎原理普及に大きく貢献した.ほかに血中ガス,ベンゼンの置換反応,有機化合物の構造と沸点の関係などの研究がある.なお,本人は,しばしばJuliusを省略してLothar Meyerと署名した.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
メイヤーをも見よ。
出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報
…その後,音楽学,心理学を中心として研究が進められる。現在の音楽認知研究は第2次大戦後のマイヤーL.Meyerの研究に負うところが大きい。その後,人工知能など,情報科学分野からの参入もあり,1980年代以降は研究の量・幅とも,急速に拡大している。…
…ギリシア神話でヘリオス,アポロンと同一視される太陽は,錬金術では金属位階の最高にある金としばしば等置された。ドイツの医師・錬金術師M.マイヤーによれば,地球の内部に宿る黄金は天空に輝く太陽の似姿にほかならない。太陽は地球の周囲を回転しつつ,影響力を地心に及ぼし,己が像を黄金として刻印したのである。…
…ともあれ,パラケルススの医化学思想は,鉱物薬品の製法に向かい,自然の諸物に内包されているあの第5のエッセンスである〈精〉をとり出す方法をさらに発展させ,金属に関する水銀‐硫黄のアラビア錬金術の理論を万物に適用して,キリスト教の三位一体的な水銀‐塩‐硫黄の3原理論を展開した。 ドイツ,さらにフランス,イギリス,オランダなどに浸透した錬金術思想は,宗教,哲学,文学,化学技術その他のさらに大きなるつぼとなり,M.マイヤー,J.ベーメ,N.フラメル,ノートンThomas Norton,リプリーGeorge Ripley,E.アシュモール,J.B.vanヘルモントなど多くの逸材が輩出した。そればかりか,その後に近代化学や近代力学を確立したイギリスのR.ボイルやニュートンらの精神も,錬金術思想が内蔵する深い知恵で養い育てられた。…
…一方,すでに19世紀初めに,アメリカの技師W.トムソン(のちのランフォード伯)は,大砲の砲身を削っていくといくらでも熱を発生することから熱の物質説に反対し,熱が何か物質内の運動に起源をもつものであることを主張した。1840年ごろ,ドイツの医師J.R.vonマイヤーは,瀉血(しやけつ)の際の患者の血の色がヨーロッパと熱帯の国々とで異なることに暗示され,力学的現象と熱現象を合わせて(さらにはもっと一般に他の形のエネルギーも含めて)エネルギー保存則が成り立たねばならないことを指摘した。実際,彼はそれに基づいて観測された気体の定圧,定積比熱の値の差から,(ジュールの実験を知らずに)理論的に熱の仕事当量の値のおおよその値を見積もることに成功している。…
… かような形式的法治国家の観念は,時の経過とともにドイツでは,一般国家学上の原理というよりはむしろ,行政権に対する法律的拘束の原理として,行政法学の領域において一般の注目をひくようになった。そうして,このような形式的法治国家の観念に理論的体系づけを与え,それをいっそう精密化したのが,ドイツ行政法学の創始者といわれるオットー・マイヤーOtto Mayerである。彼によれば,法治国家は,次のような二つの内容をもつと考えられる。…
…マイヤーE.Mayrが,〈種の分化には場所的な個体群隔離の過程が不可欠である〉という進化的法則の提唱(1942)の中で定義した語で,同所性の対語。〈二つ以上の種または亜種が繁殖の場を重複せずに分布する状態〉と定義される。…
…マイヤーE.Mayrが,〈種の分化には場所的な個体群隔離の過程が不可欠である〉という進化的法則の提唱(1942)の中で定義した語で,同所性の対語。〈二つ以上の種または亜種が繁殖の場を重複せずに分布する状態〉と定義される。…
…マイヤーE.Mayrが2種(以上)の動物個体群の在り方と地理的種分化の関係を説明するために提唱(1942)した概念で,異所性の対語。〈異なる種の個体または個体群が同じ地域に重複分布している状態〉と定義される。…
…A.マイヤーとその学派によって提唱・発展させられた力動精神医学で,S.フロイトの学説とともにアメリカ精神医学の基礎を形成した。精神障害を,あるパーソナリティ(人格)が社会的におかれた状況に対して起こす病的な反応としてとらえる。…
…
[化学結合における電子配置の役割]
原子内には原子番号と同数の電子があるが,その電子は3種の量子数(n,l,m)によって規定される原子軌道atomic orbitalに,スピン量子数msに関する制限であるパウリの原理とフントの規則を課されて,エネルギーの低いほうから順次配置される。この原子の電子配置は,D.I.メンデレーエフやJ.L.マイヤーによって見いだされた元素の諸性質の周期性(1869)と密接に関連しており,原子の化学的性質は主としてその電子配置に支配されていることが明らかにされた。そのなかで化学結合との関係で重要なことは次の3点である。…
…極小より原子番号の小さい部分には金属的な元素が,反対側には非金属元素が並ぶ(図)。1868年,ドイツのJ.L.マイヤーは原子容と原子量との間にこれと似た関係を見いだし,これが元素の周期律を表すものであることを初めて指摘した。周期律【藤本 昌利】。…
…これらは現在の周期律の最初のいとぐちをつかんだものであったが,あまりにも独創的な内容と新奇な表現のため,その価値を認められなかった。 しかしさらにドイツのJ.L.マイヤーは,原子を原子量の順番にならべた番号(これは現在の原子番号に対応する)と元素の諸性質との関係を系統的,定量的にくわしく検討し,1869年に,〈原子容曲線〉(原子容)のように,それらの性質が原子番号の周期的関数として変化することを明確にし,また同年,ロシアのD.I.メンデレーエフは,これと独立に,元素の原子価,化合物の型式などの化学的性質をも十分考慮に入れて,現在用いられているものと本質的に同様な型式の周期表を完成した。当時はまだ未発見の元素が多かったので,メンデレーエフの周期表には多くの空欄があり,一見たよりない印象を与えるものであったが,その後それらの空欄に該当する元素がつぎつぎに発見され,それらの性質がメンデレーエフが近隣の元素の性質から予測したものとまったく一致したことから,周期律に対する学界の信頼はにわかに高くなった。…
…硫黄を含む5員環の複素環式化合物。コールタールからとったベンゼンより,1882年,マイヤーV.Meyerによって単離された。沸点84.4℃の液体で,ベンゼンに似た弱い芳香をもつ。…
…硫黄を含む5員環の複素環式化合物。コールタールからとったベンゼンより,1882年,マイヤーV.Meyerによって単離された。沸点84.4℃の液体で,ベンゼンに似た弱い芳香をもつ。…
※「マイヤー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新