目次 民俗 日本の老人 ヨーロッパ 老人になるということは,単なる生物学的事象というより社会的・文化的事象である。〈老人〉は〈子ども〉や〈おとな 〉などとともに人生の諸段階を表す社会的範疇であり,それらの範疇がどのように区切られるかは社会によって違いがあるが,一般的に人生の諸段階は,〈子ども〉〈おとな〉〈老人〉の3範疇に分けられよう。〈子ども〉がまだ家を超えた生産関係のネットワーク に加入していない世代,〈おとな〉がその生産関係のネットワークの中心的な担い手 となっている世代であるのに対し,〈老人〉は,生産関係のネットワークから退き,生産手段 を後世代に譲り渡した世代である。何歳くらいで生産活動から引退して〈老人〉の範疇に入るかは,平均寿命 や次世代 が何歳くらいで〈おとな〉となるかによって異なる。クメール族 などの東南アジア稲作農耕社会 では,15歳くらいで成人し20歳くらいで結婚して〈おとな〉となるため,自分の子が〈おとな〉となる40歳くらいで〈初老〉と呼ばれ,50歳を過ぎると生産活動から引退し〈老人〉となる。
アジアやアフリカ などの農耕社会や牧畜社会では,生産活動から引退しているといっても老人は年長という理由だけで権威をもつ。とくに首長などの統治者をもたない社会では,老人たちが社会統制の任に当たる〈長老制 〉の形態をとることが多い。農耕・牧畜社会における老人の権威はたいてい儀礼的権威として現れるが,その源泉は,再生産のための種子や牛,貯蔵された生産物を,後世代に譲渡することからくる負債関係にあろう。生産サイクルが一回性で,持続的な貯蔵およびその譲渡による負債関係の生じない狩猟採集社会では,生産活動から引退した老人の権威は低い。さらに農耕・牧畜社会では,狩猟採集社会に比べ,協業が広範囲で持続的であるため,生産関係の軋轢(あつれき)の調停が問題となるが,その調停に生産関係から退き比較的自由な関係にある老人たちが当たることが,老人の権威を必要にしている。このような調停はたいてい儀礼的な場で行われ,老人の権威も儀礼的なものという形をとることが多い。
〈老人〉の象徴的意味も社会によって異なるが,知恵,〈子ども〉との類似,社会規制からの自由といった特性は,さまざまの社会に共通してみられる。知恵は,経験的な実用的知識でなく,老人のみがもつとされる秘儀的なもので,内容よりもその独占形態が老人の権威を正当化する。子どもとの類似という点では,社会的立場の上で生産関係から外れ扶養される立場にともにあるため,髪形や呼称が子ども時と同じとなる社会もある。また無性的存在とみなされることも共通する。社会規制からの自由も,生産関係から引退していることに関連していようが,極端な場合は老人の公然とした盗みや物乞い が容認される社会がある。これらの特性は,中国の老隠者のイメージにも重なるが,東アフリカ の年齢階梯制 に典型的にみられるように,アフリカなど多くの社会では,すべての人間が世代によってまったく異なり対立する理想を順次みずからの特性として体現しており,老人の特性も他の世代の特性と対立しながら,ある人間性の理想を象徴しているのだといえよう。 →年齢階梯制 執筆者:小田 亮
民俗 60歳以上の高齢者を一般に老人と呼ぶがこれは民俗学的にみれば61歳還暦の年祝いを契機としているといってよい。しかし労働力としての人間の世代区分からいえば,労働から引退する傾向が著しい65歳以上を老人とし,60代後半を老年初期,70代前半を老年中期,70代後半以降を老年後期とする区分もある。しかし老人の規定は時代によって変化する相対的なものとみなすべきであり,とくに近年のように平均寿命が延びてますます高齢化すればなおさらのことである。
老人の社会的意義は,生産的労働(職業的労働)や社会的地位からの引退,および価値の転換に求められる。生産的労働からの引退は肉体的減退に基づくものであり,とくに集団組織の一員として労働に従事している場合とくにこれが著しい。漁業における網組やカツオ釣組織などはこの一例であり,また村仕事などにおいても老人はその賦課が免除される傾向が強い。生産的労働からの引退ののちも家内的・自給的生産活動は引き続き行われる。社会的地位からの引退は,とくに村落社会 の公的地位,すなわち政治的・経済的諸活動にかかわる地位からの引退であり,いわゆる村隠居 である。村落社会における隠居 制は同一家族内における生活単位の分離であり,その時期はさまざまであって,社会的地位からの引退に直結するものではないが,ほぼ60歳前後からはこうした地位を退くのが一般的である。こうした社会的地位の引退とともに,老人の社会的価値は変換され,社会的・経済的価値に代わって,儀礼的・祭祀的価値の重要性が増加する。家族内部にあって,老人は家族の儀礼や祭祀,とくに祖先祭祀 の主要な担い手であり,村落においては氏神祭祀の主たる遂行者となる。近畿地方に濃密に存在する神社祭祀組織である宮座 (みやざ)において,老人が年齢順に神主や当屋 (とうや)を務めるのはその一例である。このように老人は青年,成人,壮年とは異なる社会的価値をもち,社会の重要な構成員のひとつであった。そしてこの老人はやがて死とともに,きたるべき社会を担う孫 たちと交替して,それらの中に霊魂が再生する存在でもあった。 執筆者:上野 和男
日本の老人 現行の法律,老人福祉法,老人保険法においては65歳以上の男女をさすが,一般に〈年寄り〉として認識されているのは,この限りではない。また,制度・民俗の両面での〈老人〉認識にも歴史的変遷があって,こんにちにいたっている。古代の律令制 においては,中国での制度にならって年齢階梯が設けられ,年齢に応じて,黄(または緑)・小・中(少)・丁・老・耆(き)の6段階に区分し,16歳から20歳までの〈中男〉,21歳から60歳までの〈正丁〉,61歳から65歳までの〈老丁〉を課口(課役の賦課対象)とした。66歳に達すると耆とみなされ,不課口とされた。このような律令制での年齢階梯制は,律令制の解体したのちも長らく日本人の年齢階梯意識に一定の影響をもたらしつづけたものと推察されるが,それは,あくまでも租・庸・調などの徴収を目的としたものであり,そのために65歳までを課口に含めていたともいえ,現実の地域生活のなかでは,むしろ61歳という年齢が〈還暦〉の年,イエ(家)の所帯を次の世代に譲与して隠居する年,地域社会の〈寄合(よりあい)〉を引退する年として,はるかに重大視されていたであろう。荘園制 のもとでの年齢階梯意識は,個々の荘園領主 の支配体制のありかたや,地域社会の特質,信仰・祭祀の伝統などとも関連して,さまざまであったろうから,いちがいにはいえないが,たとえば史上に名高い室町時代の〈山城国一揆 〉の際の集会に参席して決議に加わったのが〈下ハ十五六歳〉から〈上ハ六十歳〉までの者であったという事実(《大乗院寺社雑事記 》)は,60~61歳を人生の最後の重大な転換期とする民俗が根強かったことを思わせる。そして,この〈老年〉認識のありかたは,地域社会における〈年寄組(としよりぐみ)〉の編成とその維持に具体化されつつ,近世をへて近代にまでもちこされ,こんにちでは〈老人クラブ〉となっている。ただし,明治以降の官公庁 ・会社などでの定年は,おおむね55歳を目途として現今にいたり,〈老人〉関係の法律での規定(前述)とのあいだに10年もの開きがある。
日本の歴史のなかで,いったい何歳以上を〈老人〉とみてきたかという年齢意識の変遷も重要であるが,このほかに,年齢のことを離れて,〈老人〉にたいする世間一般の見方の問題がある。老松を背景にして立つ白髪の翁(おきな)と嫗(おうな)の姿は,伝統的に長寿賛仰の理念のシンボル として生きつづけてきたが,その根本には,老いたるものを,生産と生活に関する豊かで確実な経験・知恵の〈宝庫〉としてたいせつにする意識が強く働いていた。そしてまた,7歳未満の童 (わらべ)が一種の〈神性〉を深く認められていたように,〈老人〉にもそれとよく似た特別な畏敬の念が注がれていたのであった。しかしながら,生産・生活のありかたの急激な変化のなかで,〈老人〉の社会的役割が見えにくくなるにつれて,そのような〈老人観〉も後退し,社会・家族の〈重荷〉という認識が,いわゆる高齢化社会の進行とあいまって〈老人〉をとりまくようになり,その趨勢が〈老人〉そのものをも質的に変化させつつあるといえようか。〈老人〉にたいする〈福祉〉的処遇は欠かせないが,こんにちにおいて根本的に求められているのは,歴史と現在とを結びながら,〈老人〉という存在がになってきた役割,隠れた意義を明らかにし,〈老人〉をも含めて国民全体の理解を内容の豊かなものとすることであろう。 執筆者:横井 清
ヨーロッパ キリスト教が浸透する以前の北欧においてはじょうぶに生育する見込みのない赤子が拾てられ,治癒の可能性がない病人を殺すことによって苦しみの時を短くさせたといわれているが,身体が弱った老人も同じように扱われていたといわれる。戦場で倒れた戦士が賞賛されるように,病が重くなったとき,最後に意志の力をふりしぼってみずから死を選ぶことが望ましいとされていた。西ゴトランド島の住人は老いたとき,高い崖から身を投げたという。自由人はみずから死を選ぶとき忠実な召使を奉仕の報償として殺し,死者の国に連れてゆく。死者の神であるオーディンは主人が連れてくる召使しか入国を認めないとされているからである。アイスランドでは厳しい寒さと食糧不足のときには一般集会においてすべての老人,足なえ,病人に食を与えず,飢えるにまかせることをきめたという。キリスト教が浸透したのちはこうした慣習に歯止めがかけられたが,同様な事例は各地に伝えられている。
プロコピウスによるとヘルール族も病人と老人を殺したというし,ヘロドトスによるとマッサゲタイ人においては非常な高齢に達すると縁者が皆集まってその者を殺し,家畜もともに屠って肉を煮て一同で食べる。こうなるのがこの国では最も幸せなこととされており,病死した者は食わずに地中に埋め,殺されるまで生き延びられなかったのは不幸であったと気の毒がったという。同様な事例は中世においてもベンド人や原住プロイセン人について報告されている。他方でキケロは〈老境について〉の中で,老齢期にもなんら限界はなく,職務を実行し,死を無視しうる限り,青年期に劣らないと述べている。老境に入った者の心構えを説いたものといえる。
中世においては成人に達することを,〈その人の時がくる(ツー・ザイネン・ターゲン・コメンzu seinen Tagen Kommen)〉と言うが,その年齢は個人によってさまざまであった。老齢に達したときは〈その人の時が終わった(ナハ・ザイネン・ターゲンnach seinen Tagen)〉と呼び,それはほぼ60歳であった。戦闘,裁判,騎士としての奉仕を免除され,人命金は貴族の場合でも減額されてゆく。いわば新たな未成年が始まるのである。したがってこの年齢に達したものは一人前の男性としての能力を示さねばならない法行為において後見人をおくことができた。
キリスト教の浸透とともに異教の風習はすたれ,年老いた家長は晩年を送れるだけの財産は手元に残して,息子に財産を相続させ竈(かまど)のそばの隅の小部屋に隠退するようになる。財産のある者はあらかじめ修道院に土地などを寄進し,年老いたときには衣食住を修道院でまかなってもらうことができた。中世都市もこのような制度をとり入れて,養老院を建設しているが,それらはニュルンベルクのメンデル家の養老院のように定員12人くらいの小規模なものであり,慈善活動としての性格が強い。 →慈善事業 執筆者:阿部 謹也