デジタル大辞泉 「制服」の意味・読み・例文・類語
せい‐ふく【制服】
1 学校・会社など、一定の集団や団体に属する人が着るように定められている服装。ユニホーム。
2 文民統制(シビリアン‐コントロール)が採られている国の国防(防衛)行政機関において、文民官僚に対する職業軍人(自衛官)の称。制服組。
3 相手の勢いを押さえ、従わせること。
「其内実は未だ能く之を―するの力あるにあらざるなり」〈田口・日本開化小史〉
[類語](1)ユニホーム・服・洋服・和服・
一定の規則あるいは規準に基づいて定められた服装。ユニフォームuniformともいい,ラテン語のunus(一つの)とforma(形)に由来する。多くの場合,その目的に応じて材質,色,付属品なども統一されている。制服には,季節に応じて主人が奉公人などに与えた衣服,〈仕着(しきせ)〉と共通性があるが,〈仕着〉には画一性が意識されていない点で大きく異なる。
制服のもたらす社会的機能としては,同一性,シンボル性,禁欲性の三つの要因が考えられる。同一性とは内部に対しては一体性を醸し出すと同時に,外部と自集団との区別として作用し,軍服は,戦場での敵・味方の識別機能と同時に,味方どうしの一体感(仲間意識)を強化する。しかも,これら制服は自分が所属している集団の象徴でもある。僧服,法服(裁判官や弁護士の制服),白衣(看護服),学生服,企業の制服などは特定の職業・職場を象徴するものであり,その服装そのものがあこがれ,ないしは嫌悪(恐れ)の対象となる。したがって服装そのものが人格化されている。たとえば警察官の場合,制服を着用している警官に人びとは権力の姿をみるのであって,警官個人に権力をみるのではない。ここでは制服が絶対的意味をもつ。しかし,この事実は逆に私服警官を生み出し,相手に気づかれずに活動の場を広げることを可能にする。
このように制服は個人の行動の自由を拘束する。着用者に同一の環境にあることを自覚させ,その逸脱を認めない性格をもつ。着用者に禁欲を強いることになる。とくに僧院の制服は禁欲精神の象徴としてある。華美な服装を避けるためにとの目的から,しばしばその着用を強いられる学生服も同様である。しかし,人びとの欲望は抑圧されることによってかえって増幅される。ドイツ映画《制服の処女》(1931)が女学生の代名詞となり,〈自由なき青春〉〈自由へのあこがれ〉の比喩となったほどでもある。またポルノグラフィーのモデルとして,尼僧姿やセーラー服姿がしばしば用いられるのも故なしとしない。
執筆者:阿部 孝嗣
古代以来,服装は実用性のほかに社会的地位や階級,身分をあらわし,また権威の象徴としての性格を強くもちながら発達,変遷してきた。服装における身分制は時に区別するための規制をも生み出し,一定の階級,身分が服装で定められることもあった。ユニフォームの語源がラテン語にあるように,ある特定の集団の統一性をあらわす衣服はすでにローマ時代にあらわれており,ローマ軍団では国家から支給された武器を持ち,同一の外衣をまとっていた。また,ローマ帝国では紫色のトガは皇帝やコンスル(執政官)しか着用できず,明らかに一般市民と区別するためのシンボリックな服装であった。
中世ではキリスト教の普及とともに聖職者の僧服,祭服が決められており,また騎士階級も紋章を入れた衣服(紋章衣)をつけるなど,他の身分と区別するための服装にしたがっていた。14世紀の王侯貴族は,家臣や使用人に他家と識別し,奢侈(しやし)をいましめるため衣服,かぶりもの,衿,記章などに紋章を入れた仕着liveryを与えていた。これらは彼らの労働への報酬でもあった。商人,職人で構成されたギルドでは,職種によるギルドごとにそれぞれ特有の制服を持ち,他のギルドと明確に区別した。祭りの行列に組合員は制服を着て参加し,ギルドは仕着を着た組合〈リバリド・カンパニーliveried company〉とも呼ばれた。17世紀にあらわれ今日の衣服の原型となったジュストコルと呼ばれる丈長の上着は,ナポレオン時代にはさらに丈が短くダブルの打合せのジャケットとなったが,これは今日につながる軍服の前身ともいえるものであった。近世から近代にかけての武器,戦法の発達は服装にも反映し,制服としての軍服はあらゆる服装の中で,最も機能的・合理的な服装となっていった。軍服はその後の制服制定に大きな影響を与え,たとえば日本でも,明治初年の軍服制定に伴って官吏の制服,さらに警察官,郵便配達夫の制服も定められた。
産業革命以降,機械工業の発達は職種,職業をあらわす制服や作業衣の普及を促した。女子労働者の制服の先駆けをつくったのはナイチンゲールで,1860年ころ,彼女の病院で働く看護婦に当時流行していたクリノリンの着用を禁止し,スカートの上から白いエプロンをつけさせた。また医師や料理人の白衣は,その清潔なイメージから20世紀に入って広まった。
日本では昭和初期に自動織機が導入されるまでは,紡績工場の女子労働者は,和服にたすき(襷)がけやエプロンがけといった服装で働いていたが,機械化による危険性から帯が禁じられ,二部式の洋服(上衣にブルーマーズやズボン)を着用させたり,あるいは新しく作業衣が定められたりした。第1次・第2次世界大戦は女子の職場進出を促したが,和装の上から着用できる袖と身ごろのゆったりした事務服は,大正から昭和にかけて近代的なビルで働く女性を象徴するものであった。第2次大戦中のバス車掌の軍服に似た紺色の制服も同様であった。戦後,洋装化がすすみ,とくに1960年代以降,各企業はそのイメージづくりや労務管理の一環として,競って女子労働者の制服を定めるところが多くなった。
女子学生の制服は,キリスト教による女子教育の普及に伴って,修道尼の服装を模した長い黒衣に白衿という制服が採用されたが,19世紀には水兵服(セーラー服)がとり入れられた。日本では,明治時代の女学生は白い詰衿のシャツの上に着物を着用し,袴をつけて編上靴をはくといった和洋折衷のスタイルであったが,洋服の普及とともに特有の制服が定められるようになった。男子学生の制服も軍服にならって制定されたが,詳細は〈学生服〉の項を参照されたい。
執筆者:池田 孝江
令制で,無位の官人や庶人,家人,奴婢(ぬひ)等が,朝廷の儀式行事や日常の勤務の際に着用すべきものとして制服が定められていた。有位官人層着用の〈朝服(ちようふく)〉に該当し,693年(持統7)にすでに百姓・奴の服色の規定があるが,大宝令段階まで,庶人・奴婢の衣服も〈朝服〉として有位官人層のそれと一括されていた可能性がある。しかし〈朝服〉には,有位官人層が行う〈朝参〉の儀式に着用すべき衣服との意がこめられていることが意識されたため,養老令では朝参しない無位の者以下の朝服を,とくに制服と呼ぶことにしたらしい。その服制は男子の場合,黒無地の絁(あしぎぬ)で作った頭巾に無位は黄袍,家人,奴婢は橡墨の衣を着,白袴をつけ,黒の腰帯,白い襪(しとうず)に皮の履(くつ)をはいた。日常の勤務の際は草鞋(そうかい)でもよいとされた。また女子の場合,無位の宮人(くにん)や庶人は,六位の者の朝服の色である深緑の衣以下の色の上衣を着用してよいことになっており,緑・縹(はなだ)・紺の3色を配した裳(も),あるいは紅一色の裳をまとうこととされた。
執筆者:武田 佐知子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
とくに制定された被服の総称。ユニフォームのこと。一定の集団や団体の性格を表す機能をもち、集団内では連帯意識を高めること、外的には職業や階級や役割などを明示することを目的としている。規制の強弱や規模の大小はあるが、画一に定められた服装はすべて制服の範囲に入る。その意味から、歴史上現れた、身分や階級を序列化した服装制度(服制)もこれに含まれる。
現代の職業服としての制服は明治に始まる。洋装化を早急に実現させるために、明治政府が軍服や官公吏服にまず洋服を採用したが、それが現在の制服の基礎となっている。1870年(明治3)に制定された陸軍服(フランス式、のちにドイツ式に改正)と海軍服(イギリス式)は、改正を繰り返しながら第二次世界大戦終了まで維持された。また翌71年には郵便夫と邏卒(らそつ)(警官)、72年には鉄道員の制服が定められ、いずれも現在の官公服に受け継がれている。女子の職業服は、職場が少なかったことと、和服にエプロン姿が作業衣でもあったため、明治の制服としては看護服しか存在しなかった。看護服は94年に日本赤十字社によって初めて制定されている。女性の職場が広がり始めた大正から昭和の初めにかけて、バスの車掌や百貨店の店員などに制服が採用され、一般女性の洋装化を促すことになった。第二次大戦後は上っ張り程度にすぎなかった事務服や作業衣は、合繊の開発が進み、既製服産業も成長した昭和40年代から、素材や機能への配慮はもとより、ファッション性も加味された新しい制服が出現し、銀行、百貨店、量販店をはじめ各企業に採用されていった。
[辻ますみ]
日本では飛鳥(あすか)時代の冠位十二階制が最初であり、養老(ようろう)の衣服令を経て、公家(くげ)の服制は平安時代の有職故実(ゆうそくこじつ)に発展する。鎌倉時代に始まる武家の服制は江戸時代まで維持されるが、江戸中期のたび重なる奢侈(しゃし)禁止令は、町人階級の富裕化を語っている。明治政府は華族制度を設けて礼服などの規定を行ったが、現憲法では廃止され、服制は特殊な職業にのみ残存している(法服、僧服など)。
ヨーロッパにおいても、古代ローマに服制があり、中世・近世を通じて身分による規制は細部に及び、モード現象が現れた12世紀よりすでに禁止令がある。服制は、制定する支配者にとっては、権力と秩序を維持する手段であり、台頭する新興階級はそれを錯乱させることで、自らの勢力を効果的に示してきた。
[辻ますみ]
企業などで制服を定めている場合もあるが、ここでは学校の制服について述べる。男子は、1879年(明治12)学習院で採用したのが最初である。女子は、官立では東京女子師範学校が85年に、私立では山脇(やまわき)学園が1919年(大正8)に採用している。その後、中学校の兵式体操を実施する便宜から急速に普及し、幼稚園から大学にまで及んだ。第二次大戦後、まず大学で制服を廃止し、昭和40年代の高校学園紛争では、生徒が制服廃止を叫んだこともあり、高校でもしだいに制服が減少している。公立中学校では、制服ほど型式や着用に関する規制の強くない「標準服」を定めている場合が多い。小学校では一般に制服を定めている例は少ない。しかし、大部分の私立学校では制服を維持している。
制服を定め、児童・生徒に着用させることは、色彩感覚や服装に関するセンスの発達を弱めるという意見もあるが、児童・生徒に学校の一員であるという自覚や連帯感を促し、規律心を育てるだけでなく、華美な服装を競ったり、非行集団の服装をまねたりすることを防ぐなどの効果は無視できない。
[三枝源一郎]
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「ユニフォーム」のページをご覧ください。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…もちろん,それ以前に,草木染を中心に具体的で雑多な色が日本列島先住民たちによって作られ用いられてきたことも確かであるが,色をどう観念するか,なんの色を尊きもの好ましきものと感ずるか,という問題が最初に日本人の意識にのぼったのは,律令受容に伴う中国の制度文化の咀嚼(そしやく)=消化の段階においてである。律令の〈衣服令(えぶくりよう)〉をみると,〈礼服(らいぶく)〉(大祀・大嘗・元日に着る儀式用の服),〈朝服(じようぶく)〉(朝廷で着る公事(くじ)用の服),〈制服(せいぶく)〉(無位の官人・庶人の着る服)が厳格に規定され,位階や身分の上下に従って使用する色が異なっていたのを知る。表の〈古代服色表〉は《日本書紀》《続日本紀(しよくにほんぎ)》所載記事をも併せ参考にしながら,4回の服色規定が一目瞭然にわかるようにしたものだが,これによって,紫が最高の位階を示し,以下,赤,緑,藍(青)の順になっていたことを知る。…
…主として中学校以上の学校の生徒・学生が通学の際に着用する洋服。多くは制服,標準服または正服とされる。日本の場合,男子の学生服は,1886年高等師範学校,帝国大学などで採用したのを最初として,87‐88年中に各地の師範学校,中学校などで制服として採用され,日清・日露戦争期ころには私立学校でも広く用いられるようになった。…
…総裁は安達,幹事長は山道襄一で,第64議会では33議席を有した。また,日本の政党としてはじめて制服を採用し,イタリアのファッショを模した黒サージ,両胸ポケット,バンド付きのスタイルからも“和製ファッショ”と呼ばれた。斎藤実内閣にたいしては野党的立場をとり,ついで岡田啓介内閣では安達が内閣審議会委員に就任して与党化したが,党内には民政党復帰派(山道派)や解党派(中野派)などの動きがおこり,35年末までに山道ら8名が民政党に復帰し,中野も脱党して東方会に拠り,党勢は減退した。…
※「制服」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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