木川村(読み)きのかわむら

日本歴史地名大系 「木川村」の解説

木川村
きのかわむら

[現在地名]草津市木川町

北山田きたやまだ村の東に位置し、北端を草津川が西流する。村名は草津川の異称木川にちなむとされ、本郷と出屋敷でやしき新田しんでんの三集落からなる。中世には木川庄として推移。同庄は「和名抄」記載の栗太くりた木川郷の系譜を引くとみられ、元徳元年(一三二九)九月二九日の山田庄木川田地坪付案(葛川明王院史料)に「山田庄木川」、建武五年(一三三八)の木川天神社の棟札に「栗太郡山田図ノ内、木ノ河庄」とみえ、もとは山田庄に含まれた。至徳二年(一三八五)一一月一六日の木河庄田地坪付(同史料)によれば、栗太郡条里の九条一一里・一二里に相当し、葛川明王かつらがわみようおう(現大津市)の常灯料を賦課されていた。


木川村
きがわむら

[現在地名]酒田市木川

新堀にいぼり村の南にあり、最上川下流左岸に位置する。当初現在地より東のあと(現東田川郡余目町)付近にあったが、最上川の川欠けによって天正一五年(一五八七)現在地に移ったという。永禄年間(一五五八―七〇)近くの久田きゆうでん(現余目町)を開発したのが当村の吉泉藤左衛門と伝える(栄郷土史)。喜川(河)村とも記された。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高一六二石余。寛永元年庄内高辻帳の高は三四九石余。寛永九年(一六三二)加藤忠広領となり、承応二年(一六五三)の御預地手控(余目町史)によると高は変わらず、免四ツ四分一厘。


木川村
きのかわむら

[現在地名]新宮市かわ

佐野さの村の西に位置し、集落は村内を貫流する木ノ川沿いの狭い谷間に点在する。南は高津気こうづけ(現東牟婁郡那智勝浦町)。慶長検地高目録には「木野川村」とみえ、高二一六石余、小物成五斗二升二合。佐野組に属し、寛永五年(一六二八)正月調べの御帳(「新宮市史」所引)には、家数三八(うち寺一)、一五歳より六〇歳までの人数一八七、牛三一、鉄砲七とある。正保三年(一六四六)には新田高五四石余で(新宮市誌)、新田開発がなされたことが知られる。この新田を年貢未納のため売る者もいたようで、天保一〇年(一八三九)一二月の新田売渡状(西家文書)によると、木川の政市なる者が二段五畝の新田を村役人に売渡している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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