日本歴史地名大系 「山田庄」の解説
山田庄
やまだのしよう
長元八年(一〇三五)正月二〇日の山田庄司等解(九条家本延喜式裏文書)によれば、当庄は摂津・播磨国境にあり、往来する「不善之輩」がともすれば放火・殺人などを犯す治安の悪い所であった。当時の領主は不明。嘉応元年(一一六九)一一月日の権大僧都顕―解案(東大寺文書)によれば、山田庄は先に奈良東大寺が領有していたが、永万(一一六五―六六)頃、平清盛領の越前国
山田庄
やまだのしよう
- 愛知県:名古屋市
- 山田庄
旧山田郡に属し、遺称地名が現
本家職は、寿永三年(一一八四)二月一一日付某下文(水野正彦氏所蔵文書)に「八条院御領尾張国山田御庄」とみえ、八条院に寄せられていた。
山田庄
やまだのしよう
- 岐阜県:郡上郡
- 山田庄
現
貞応三年(一二二四)以降の年月日未詳宣陽門院覲子内親王所領目録(島田文書)に「美濃国山田庄上保 下保」とある。覲子内親王は後白河法皇の皇女で、建久二年(一一九一)宣陽門院の号が与えられ、六条長講堂領・長講堂領および上西門院領が譲渡された。
山田庄
やまだのしよう
中世、
山田庄
やまだのしよう
山田庄
やまだのしよう
山田庄
やまだのしよう
- 福岡県:豊前市
- 山田庄
古代の
山田庄
やまだのしよう
山田庄
やまだのしよう
山田庄
やまだのしよう
現邑久町山田庄を遺称地とし、一帯に推定される京都
文明一二年(一四八〇)四月、賀茂社は当庄などに装束の新調を命じている(「装束新調庄役注文」賀茂別雷神社文書)。
山田庄
やまだのしよう
山田庄
やまだのしよう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報