木本庄(読み)きのもとのしよう

日本歴史地名大系 「木本庄」の解説

木本庄
きのもとのしよう

北は和泉国、南は海に接し、西は賀太かだ庄。現もと西庄にしのしよう榎原えのきはら古屋こやの地域が荘域にあたると思われる。荘域は古代の木本郷にあたる。天平一九年(七四七)二月一一日付の大安寺伽藍縁起并流記資財帳(文化庁蔵)によると、奈良大安寺は天武天皇元年に木本郷の空閑地一七〇町を墾田として得ており、その四至は東は百姓宅并道、西は牧、北は山、南は海であった。その後天平一六年には五町を得ているが、この地は葦原で、四至は東は川、西は百姓熟田、南は松原、北は山であった。しかし可耕地として与えられたこれら墾田は、資財帳作成時においてまったく開田されていない。大安寺のその後の趨勢からみて、この地に対する大安寺の領知権は消滅したものと思われる。

〔崇敬寺領〕

康和二年(一一〇〇)七月二三日付の東大寺政所下文案(筒井寛聖氏蔵東大寺文書)に「別院崇敬寺所領紀伊国木本庄」とあり、東大寺末寺崇敬寺(現奈良県桜井市安倍文殊院)領木本庄が現れる。同寺領となった経緯について、同四年七月二一日付の東大寺政所下文案(同文書)には「舒明天皇勅施入之地」とあるが、もちろん信用できない。崇敬寺による開発は次にみるように一一世紀中頃からである。すなわち天永元年(一一一〇)と推測される一二月一九日付崇敬寺別当頼慶請文(東大寺文書)

<資料は省略されています>

とあり、葦原田一〇八町余は、国司定家在任中の永承年間(一〇四六―五三)に五〇町余、国司永綱・有佐両人在任中に三〇町余、国司朝輔在任中に二〇町余が開発されたことが知られる。前二回は寺家の費用で、後一回は住人らの負担で開発が行われている。

〔領有権の争い〕

崇敬寺による開発とほぼ並行して、東大寺・崇敬寺と村上源氏一族である三河守源有政、その子有雄(王)丸との間で領有権をめぐる争いが起こり、長く続いた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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