日本歴史地名大系 「木本庄」の解説
木本庄
きのもとのしよう
北は和泉国、南は海に接し、西は
〔崇敬寺領〕
康和二年(一一〇〇)七月二三日付の東大寺政所下文案(筒井寛聖氏蔵東大寺文書)に「別院崇敬寺所領紀伊国木本庄」とあり、東大寺末寺崇敬寺(現奈良県桜井市安倍文殊院)領木本庄が現れる。同寺領となった経緯について、同四年七月二一日付の東大寺政所下文案(同文書)には「舒明天皇勅施入之地」とあるが、もちろん信用できない。崇敬寺による開発は次にみるように一一世紀中頃からである。すなわち天永元年(一一一〇)と推測される一二月一九日付崇敬寺別当頼慶請文(東大寺文書)に
とあり、葦原田一〇八町余は、国司定家在任中の永承年間(一〇四六―五三)に五〇町余、国司永綱・有佐両人在任中に三〇町余、国司朝輔在任中に二〇町余が開発されたことが知られる。前二回は寺家の費用で、後一回は住人らの負担で開発が行われている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報