村上天皇の皇子具平(ともひら)親王より出た皇胤貴族。嵯峨天皇の皇子が源氏の姓を賜って以来,源姓の皇胤貴族は数多く輩出したが,後世まで永く公家社会にふみとどまったのは,宇多・醍醐・村上3天皇の皇胤で,なかんずく村上源氏の諸家がもっとも繁栄した。1020年(寛仁4)源朝臣の姓を賜った具平親王の長男師房は,関白藤原頼通の猶子となって朝廷に出身し,さらに頼通の妹尊子をめとって俊房・顕房兄弟をもうけた。こうして摂関家との緊密な関係を背景として,父子ともに相ついで大臣に昇ったが,さらに顕房の女賢子が関白藤原師実の養子となって入内し,白河天皇の皇后となって寵を得,その所生の皇子たる堀河天皇が践祚(せんそ)するにおよび,一門大いに栄え,一時は源氏の公卿が藤氏公卿を越える人数を誇った。ことに洛南久我(こが)の里に別業を営んだ顕房の子孫は久我源氏と呼ばれ,ついで鎌倉初期の権臣通親(顕房の玄孫)の後からは,久我家,中院家,六条家,岩倉家,千種家,北畠家等の諸家が分立し,摂家に次ぐ家格の清華家あるいは羽林(うりん)家に列し,明治に入って侯爵あるいは伯爵を授けられた。
→源氏
執筆者:橋本 義彦
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賜姓源氏の一つ。村上天皇の孫に始まる二世源氏で,具平(ともひら)親王の子師房(もろふさ)が1018年(寛仁2)に賜姓。そのほか賜姓年月は不明であるが,為平・具平両親王の子は僧・女子を除いてみな村上源氏に属した。師房とその子孫は大臣を歴任し,摂関の妻を輩出して摂関家を支えるとともに牽制する役割をはたした。師房の子顕房の女賢子が白河天皇の中宮となったのを契機に,院政期には顕房の直系子孫である久我(こが)家を頂点として,しばしば摂関家をこえる実権をもった。鎌倉初期には,反幕派の久我通親が親幕派の関白九条兼実を失脚させて権勢を振った。鎌倉中期以降,堀川・土御門(つちみかど)・中院(なかのいん)・六条・千種・北畠などの家にわかれ,藤原氏とともに中世以降の公家世界の枢要を維持した。
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村上天皇の皇子具平(ともひら)親王の子師房(もろふさ)に始まる賜姓源氏。堀川(ほりかわ)、久我(こが)、土御門(つちみかど)、中院(なかのいん)、六条(ろくじょう)、千種(ちぐさ)、北畠(きたばたけ)などの公家(くげ)に分かれた。北畠親房(ちかふさ)もこの流れである。
[編集部]
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… ついで村上天皇からは皇子昭平親王が源姓となったほか,致平,為平,具平の諸親王の皇子たちがそれぞれ源氏となった。村上源氏の中でも二品中務卿具平親王の子源師房は従一位右大臣となり,その子俊房は従一位左大臣,顕房は従一位右大臣になるなど,この系流は白河院政成立期に朝廷に権勢をふるい,一時は源氏一門が公卿の過半数を占め,それまで廟堂を独占していた藤原摂関家を圧倒するほどの勢いを示した。当時すなわち11世紀末ごろ,清和源氏の一流で源義家に代表される武勇の家がその武的勢力を大きく伸ばしはじめていたが,中央政界で源氏といえば,むしろ俊房以下の村上源氏の一流をさしたのであった。…
…また摂関家の重鎮であった前関白藤原頼通,上東門院彰子が翌74年(承保1)に,75年には関白教通が没,関白は頼通の子師実が継いだ。そして摂関家の衰勢に対し,先朝以来の村上源氏の進出が目だつが,同氏は本来摂関家と姻戚関係が深く,両者は必ずしも対立的ではなかった。白河即位に当たり,東宮には後三条の意志で女御源基子所生の2歳の異母弟実仁親王が立つが,これは摂関家が外戚となるのを排したためといわれる。…
…平安後期の公卿。村上源氏の祖。村上天皇皇子具平親王の長男。…
※「村上源氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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