木本村(読み)きのもとむら

日本歴史地名大系 「木本村」の解説

木本村
きのもとむら

[現在地名]三橋町木元きのもと

磯鳥いそどり村の東、沖端おきのはた川北岸にある。村名は木元とも記す(「本郷組覚書」瀬高町公民館保管など)。元和七年(一六二一)の郡村帳に木ノ本村とみえ、玄蕃高一千六〇石余、小物成は野手米一石余・山手米一石余。万治三年(一六六〇)の忠茂公御代之分限帳(渡辺家史料)によると堀吉右衛門ら四名の知行地があった。文政三年(一八二〇)から同七年頃の当村庄屋は庄蔵で、文政七年八月三柱みはしら宮に金一〇〇疋を寄進。同一一年の大風で倒家七軒の被害があった。天保一一年(一八四〇)八月には当村庄屋役と村庄屋役を兼ねる正蔵が出奔したため、上・下の起田おきた村庄屋石橋嘉平次と吉開よしがえ村庄屋甚之丞両人が跡役を受持っている(前掲覚書)

木本村
きのもとむら

[現在地名]八尾市木の本きのもと一―二丁目・西木の本にしきのもと一―四丁目・木本など

丹北郡に属し、志紀郡南木本村の西に位置する。郡界を越えて「木本村」が発展したのか、郡界に変化があったかどうかは不明。産土神の樟本くすもと神社は「延喜式」神名帳の志紀郡樟本神社三座の一座に比定される。村高は正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では五六二石余、延宝検地後は六三三石余(元文二年河内国高帳)。初め幕府領元禄郷帳によると旗本小出民部領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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