秋元喬知(読み)あきもとたかとも

改訂新版 世界大百科事典 「秋元喬知」の意味・わかりやすい解説

秋元喬知 (あきもとたかとも)
生没年:1649-1714(慶安2-正徳4)

江戸中期老中戸田忠昌長男。1657年(明暦3)秋元富朝の遺領甲斐国谷村(やむら)1万8000石を継ぐ。寺社奉行若年寄を経て99年(元禄12)老中。その間1万2000石の加増。さらに1700年1万石,04年1万石を加増され武蔵国川越城主となり,11年1万石の加増により6万石。在任中江戸城三丸,小石川御殿,護持院護国寺,東叡山中堂の造営に活躍。なお徳川綱吉御前で論語を講ずるなど元禄期文治政治を推進した。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「秋元喬知」の解説

秋元喬知 あきもと-たかとも

1649-1714 江戸時代前期-中期の大名
慶安2年生まれ。下総(しもうさ)佐倉藩(千葉県)藩主戸田忠昌(ただまさ)の長男。母方の祖父秋元富朝(とみとも)の養子となり,明暦3年甲斐(かい)(山梨県)谷村(やむら)藩主秋元家3代。奏者番,若年寄をへて元禄(げんろく)12年老中。宝永元年転封(てんぽう)により武蔵(むさし)川越藩(埼玉県)藩主秋元家初代となり,のち6万石を領した。正徳(しょうとく)4年8月14日死去。66歳。初名は喬朝。官職名は但馬守(たじまのかみ)。

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世界大百科事典(旧版)内の秋元喬知の言及

【勝手掛】より

…1867年(慶応3)廃止,会計総裁に引き継がれた。勝手掛若年寄は1698年(元禄11)秋元喬知,米倉昌尹が初めて任命され,中絶後1730年本多忠統の就任により復活した。【大野 瑞男】。…

※「秋元喬知」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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