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秋元喬知 あきもと たかとも

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

秋元喬知 あきもと-たかとも

1649-1714 江戸時代前期-中期の大名。
慶安2年生まれ。下総(しもうさ)佐倉藩(千葉県)藩主戸田忠昌(ただまさ)の長男。母方の祖父秋元富朝(とみとも)の養子となり,明暦3年甲斐(かい)(山梨県)谷村(やむら)藩主秋元家3代。奏者番,若年寄をへて元禄(げんろく)12年老中宝永元年転封(てんぽう)により武蔵(むさし)川越藩(埼玉県)藩主秋元家初代となり,のち6万石を領した。正徳(しょうとく)4年8月14日死去。66歳。初名は喬朝。官職名は但馬守(たじまのかみ)。

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朝日日本歴史人物事典の解説

秋元喬知

没年:正徳4.8.14(1714.9.22)
生年:慶安2(1649)
江戸前期の大名。戸田忠昌の長男。明暦3(1657)年10月遺領を襲い,甲斐国(山梨県)谷村藩1万8000石の藩主となる。雁の間詰め。延宝5(1677)年7月奏者番となり,以後寺社奉行兼帯(1681年),若年寄(1682年10月)を経て元禄12(1699)年10月から宝永4(1707)年8月まで老中として5代将軍徳川綱吉の治世を助けた。所領は元禄4年,7年,13年と度々加増され,宝永1年12月には1万石加増のうえ,武蔵国川越(埼玉県)へ転封(5万石),正徳1(1711)年12月1万石加増され,計6万石を領した。谷村藩時代,治水,殖産策に力を注ぎ,郡内織を盛んにするなど,秋元家中興の英主といわれる。その反面,収奪強化策を展開したため,寛文6(1666)年以降,減租を求める領民の嘆願が続き,天和1(1681)年に至り一揆が起こっている。川越藩時代も殖産策を展開,絹織物,川越斜子,川越平の生産発展にみるべきものがあった。

(泉正人)

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世界大百科事典 第2版の解説

あきもとたかとも【秋元喬知】

1649‐1714(慶安2‐正徳4)
江戸中期の老中。戸田忠昌の長男。1657年(明暦3)秋元富朝の遺領甲斐国谷村(やむら)1万8000石を継ぐ。寺社奉行,若年寄を経て99年(元禄12)老中。その間1万2000石の加増。さらに1700年1万石,04年1万石を加増され武蔵国川越城主となり,11年1万石の加増により6万石。在任中江戸城三丸,小石川御殿,護持院護国寺,東叡山中堂の造営に活躍。なお徳川綱吉の御前で論語を講ずるなど元禄期文治政治を推進した。

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世界大百科事典内の秋元喬知の言及

【勝手掛】より

…1867年(慶応3)廃止,会計総裁に引き継がれた。勝手掛若年寄は1698年(元禄11)秋元喬知,米倉昌尹が初めて任命され,中絶後1730年本多忠統の就任により復活した。【大野 瑞男】。…

※「秋元喬知」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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