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本多忠勝 ほんだ ただかつ

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

本多忠勝 ほんだ-ただかつ

1548-1610 織豊-江戸時代前期の武将,大名。
天文(てんぶん)17年生まれ。本多忠高の長男。徳川家康につかえる。五十数回の戦いにでて一度も傷をうけなかったという歴戦の勇者で,徳川四天王のひとり。天正(てんしょう)18年上総(かずさ)(千葉県)大多喜に10万石を領し,慶長6年伊勢(いせ)(三重県)桑名藩主本多家初代。10万石。慶長15年10月18日死去。63歳。三河(愛知県)出身。通称は平八郎,中務大輔。
【格言など】武芸文学をするにも,忠義を心掛け天下の難を救わんと志すべきなり(遺書)

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朝日日本歴史人物事典の解説

本多忠勝

没年:慶長15.10.18(1610.12.3)
生年:天文17(1548)
安土桃山・江戸時代初期の武将,大名。幼名鍋之助,のち平八郎,中務大輔と称した。本多忠高の長男。母は植村新六郎氏義の娘。三河国(愛知県)に生まれ,父と同じく徳川家康に仕え,永禄3(1560)年に13歳で尾張国大高城の攻略戦に初陣。そののち三河一向一揆,姉川の戦,三方ケ原の戦,長篠の戦,高天神の戦など家康一代の間の主要な戦いにおいて抜群の戦功をあげ,酒井忠次,榊原康政,井伊直政とならんで徳川四天王のひとりと称された。天正10(1582)年の本能寺の変に際しては,堺方面を遊歴していて進退に迷う家康に進言して岡崎帰城を勧め,伊賀越えの危地を切り抜けて無事帰還させた。同18(1590)年の関東入部のおりには上総国(千葉県)大多喜10万石を給される。慶長5(1600)年の関ケ原の戦では,本多家の本隊は嫡子の忠政が率いて徳川秀忠のもとで真田昌幸の守る信州上田城の攻撃に向かい,忠勝は東海道方面の東軍の軍目付として小姓の者400名余を引き連れて同合戦に臨んだ。この戦で忠勝ははじめ家康の本陣近くにあって作戦に参画していたが,戦況が東軍に不利となるや自ら前線に赴いて全軍の進退を指揮し,また供の兵と共に敵陣に数度切り込んで獅子奮迅の働きをなした。東軍の福島正則が合戦後に,忠勝の用兵の妙を絶賛したことが伝えられている。翌6年に東海道の要地である伊勢国桑名に10万石のままで所替えとなり,忠勝に従って同合戦で働いた次男忠朝に大多喜5万石が新規に給され,そののちの本多一族の繁栄の基を形成した。忠勝は初陣以来57回の戦を経験しながら,身に傷跡をとどめなかったと伝えられているが,彼こそ古今無双の勇士の名に恥じない武将であった。桑名において卒去。歳63。法号は長誉良信西岸寺。<参考文献>村上直「徳川四天王」(北島正元編『江戸幕府』上)

(笠谷和比古)

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世界大百科事典 第2版の解説

ほんだただかつ【本多忠勝】

1548‐1610(天文17‐慶長15)
戦国末期~江戸初期に徳川家康に仕えた武将。酒井忠次,榊原康政,井伊直政とともに徳川四天王と呼ばれ,徳川氏譜代家臣団の最上層を形成した。父は忠高,母は植村新六郎氏義の女。幼名鍋之助,通称平八郎。1560年(永禄3)尾張大高城の兵糧入れが初陣。武功により頭角をあらわし,66年寄騎(よりき)50人余を付属された。以後武田信玄との諸戦で勇戦し,信玄の近習小杉左近はその武勇を〈家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八〉とうたったという。

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大辞林 第三版の解説

ほんだただかつ【本多忠勝】

1548~1610) 安土桃山・江戸初期の大名。通称、平八郎。三河の人。徳川家康に仕え、徳川四天王の一人。幕府創業の功臣として、伊勢桑名城一五万石を領した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

本多忠勝
ほんだただかつ

[生]天文17(1548).三河
[没]慶長15(1610).10.18. 桑名
安土桃山時代の武将。忠高の子。通称は平八郎。幼少から徳川家康に仕え,しばしば戦功を立てた。 50回余の合戦に参加し,特に天正3 (1575) 年の長篠の戦い,同 12年の小牧・長久手の戦いには大功を立てた。同 16年家康に従って上洛した際,中務大輔に任じられた。同 18年8月家康が関東に入ると,上総大多喜城1万石を与えられ,慶長5 (1600) 年の関ヶ原の戦いでは岐阜城を陥れ,進んで関ヶ原に戦って功を立てた。同6年伊勢桑名に 10万石を与えられた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

本多忠勝
ほんだただかつ
(1548―1610)

徳川家康に仕えた武将。松平氏発祥のころからの譜代(ふだい)の家柄で、三河(愛知県)の生まれ。代々平八郎を通称。父忠高(ただたか)は織田信広(おだのぶひろ)を安城(あんじょう)城に攻めて討ち死に。ときに忠勝は2歳。13歳のとき1560年(永禄3)松平元康(もとやす)(後の家康)の尾張(おわり)(愛知県)大高(おおたか)城への兵粮(ひょうろう)搬入に従ったのを初陣として、以後57回の戦いに参加しながら一度も手傷を受けなかったが、その勇猛ぶりは、72年(元亀3)武田信玄(しんげん)との合戦のあとで「家康に過ぎたるものが二つあり、唐(から)の頭(かしら)に本多平八」と敵にはやされるほどであった。84年(天正12)長久手(ながくて)の戦いでの武者ぶりも著名。「徳川四天王」の一人とされる。88年従(じゅ)五位下中務大輔(なかつかさたゆう)。90年上総(かずさ)(千葉県)大多喜(おおたき)城主(10万石)。1601年(慶長6)伊勢(いせ)(三重県)桑名(くわな)に移封となったが、大多喜城は次男忠朝(ただとも)に与えられた。慶長(けいちょう)15年10月18日桑名で没。墓は同地の浄土寺(桑名市清水町)にある。[高木昭作]

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