戦国末期~江戸初期に徳川家康に仕えた武将。酒井忠次,榊原康政,井伊直政とともに徳川四天王と呼ばれ,徳川氏譜代家臣団の最上層を形成した。父は忠高,母は植村新六郎氏義の女。幼名鍋之助,通称平八郎。1560年(永禄3)尾張大高城の兵糧入れが初陣。武功により頭角をあらわし,66年寄騎(よりき)50人余を付属された。以後武田信玄との諸戦で勇戦し,信玄の近習小杉左近はその武勇を〈家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八〉とうたったという。1590年(天正18)家康の関東転封時の知行割りでは,上総大多喜10万石を領した。当時すでに酒井忠次は引退していたので,井伊直政(上野箕輪(みのわ)12万石),榊原康政(上野館林10万石)とともに三人衆とも呼ばれた。1601年(慶長6)伊勢国桑名10万石に転じた。
執筆者:所 理喜夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
徳川家康に仕えた武将。松平氏発祥のころからの譜代(ふだい)の家柄で、三河(愛知県)の生まれ。代々平八郎を通称。父忠高(ただたか)は織田信広(おだのぶひろ)を安城(あんじょう)城に攻めて討ち死に。ときに忠勝は2歳。13歳のとき1560年(永禄3)松平元康(もとやす)(後の家康)の尾張(おわり)(愛知県)大高(おおたか)城への兵粮(ひょうろう)搬入に従ったのを初陣として、以後57回の戦いに参加しながら一度も手傷を受けなかったが、その勇猛ぶりは、72年(元亀3)武田信玄(しんげん)との合戦のあとで「家康に過ぎたるものが二つあり、唐(から)の頭(かしら)に本多平八」と敵にはやされるほどであった。84年(天正12)長久手(ながくて)の戦いでの武者ぶりも著名。「徳川四天王」の一人とされる。88年従(じゅ)五位下中務大輔(なかつかさたゆう)。90年上総(かずさ)(千葉県)大多喜(おおたき)城主(10万石)。1601年(慶長6)伊勢(いせ)(三重県)桑名(くわな)に移封となったが、大多喜城は次男忠朝(ただとも)に与えられた。慶長(けいちょう)15年10月18日桑名で没。墓は同地の浄土寺(桑名市清水町)にある。
[高木昭作]
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