コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

本多忠勝 ほんだ ただかつ

8件 の用語解説(本多忠勝の意味・用語解説を検索)

美術人名辞典の解説

本多忠勝

安土桃山・江戸前期の大名。伊勢・桑名藩主。三河生。幼名は鍋之助、通称は平八郎・中務大輔。徳川家康に仕え、三河一向一揆姉川の戦長篠の戦等で戦功をあげた。徳川四天王の一人。慶長15年(1610)歿、63才。

出典|(株)思文閣
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

ほんだ‐ただかつ【本多忠勝】

[1548~1610]江戸初期の大名。伊勢桑名城主。三河の人。通称、平八郎。徳川家康に仕え、武勇をもって知られた。徳川四天王の一人。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

本多忠勝 ほんだ-ただかつ

1548-1610 織豊-江戸時代前期の武将,大名。
天文(てんぶん)17年生まれ。本多忠高の長男。徳川家康につかえる。五十数回の戦いにでて一度も傷をうけなかったという歴戦の勇者で,徳川四天王のひとり。天正(てんしょう)18年上総(かずさ)(千葉県)大多喜に10万石を領し,慶長6年伊勢(いせ)(三重県)桑名藩主本多家初代。10万石。慶長15年10月18日死去。63歳。三河(愛知県)出身。通称は平八郎,中務大輔。
【格言など】武芸文学をするにも,忠義を心掛け天下の難を救わんと志すべきなり(遺書)

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

本多忠勝

没年:慶長15.10.18(1610.12.3)
生年:天文17(1548)
安土桃山・江戸時代初期の武将,大名。幼名鍋之助,のち平八郎,中務大輔と称した。本多忠高の長男。母は植村新六郎氏義の娘。三河国(愛知県)に生まれ,父と同じく徳川家康に仕え,永禄3(1560)年に13歳で尾張国大高城の攻略戦に初陣。そののち三河一向一揆,姉川の戦,三方ケ原の戦,長篠の戦,高天神の戦など家康一代の間の主要な戦いにおいて抜群の戦功をあげ,酒井忠次,榊原康政,井伊直政とならんで徳川四天王のひとりと称された。天正10(1582)年の本能寺の変に際しては,堺方面を遊歴していて進退に迷う家康に進言して岡崎帰城を勧め,伊賀越えの危地を切り抜けて無事帰還させた。同18(1590)年の関東入部のおりには上総国(千葉県)大多喜10万石を給される。慶長5(1600)年の関ケ原の戦では,本多家の本隊は嫡子の忠政が率いて徳川秀忠のもとで真田昌幸の守る信州上田城の攻撃に向かい,忠勝は東海道方面の東軍の軍目付として小姓の者400名余を引き連れて同合戦に臨んだ。この戦で忠勝ははじめ家康の本陣近くにあって作戦に参画していたが,戦況が東軍に不利となるや自ら前線に赴いて全軍の進退を指揮し,また供の兵と共に敵陣に数度切り込んで獅子奮迅の働きをなした。東軍の福島正則が合戦後に,忠勝の用兵の妙を絶賛したことが伝えられている。翌6年に東海道の要地である伊勢国桑名に10万石のままで所替えとなり,忠勝に従って同合戦で働いた次男忠朝に大多喜5万石が新規に給され,そののちの本多一族の繁栄の基を形成した。忠勝は初陣以来57回の戦を経験しながら,身に傷跡をとどめなかったと伝えられているが,彼こそ古今無双の勇士の名に恥じない武将であった。桑名において卒去。歳63。法号は長誉良信西岸寺。<参考文献>村上直「徳川四天王」(北島正元編『江戸幕府』上)

(笠谷和比古)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

ほんだただかつ【本多忠勝】

1548‐1610(天文17‐慶長15)
戦国末期~江戸初期に徳川家康に仕えた武将。酒井忠次,榊原康政,井伊直政とともに徳川四天王と呼ばれ,徳川氏譜代家臣団の最上層を形成した。父は忠高,母は植村新六郎氏義の女。幼名鍋之助,通称平八郎。1560年(永禄3)尾張大高城の兵糧入れが初陣。武功により頭角をあらわし,66年寄騎(よりき)50人余を付属された。以後武田信玄との諸戦で勇戦し,信玄の近習小杉左近はその武勇を〈家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八〉とうたったという。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

ほんだただかつ【本多忠勝】

1548~1610) 安土桃山・江戸初期の大名。通称、平八郎。三河の人。徳川家康に仕え、徳川四天王の一人。幕府創業の功臣として、伊勢桑名城一五万石を領した。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

本多忠勝
ほんだただかつ

[生]天文17(1548).三河
[没]慶長15(1610).10.18. 桑名
安土桃山時代の武将。忠高の子。通称は平八郎。幼少から徳川家康に仕え,しばしば戦功を立てた。 50回余の合戦に参加し,特に天正3 (1575) 年の長篠の戦い,同 12年の小牧・長久手の戦いには大功を立てた。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

本多忠勝
ほんだただかつ
(1548―1610)

徳川家康に仕えた武将。松平氏発祥のころからの譜代(ふだい)の家柄で、三河(愛知県)の生まれ。代々平八郎を通称。父忠高(ただたか)は織田信広(おだのぶひろ)を安城(あんじょう)城に攻めて討ち死に。ときに忠勝は2歳。13歳のとき1560年(永禄3)松平元康(もとやす)(後の家康)の尾張(おわり)(愛知県)大高(おおたか)城への兵粮(ひょうろう)搬入に従ったのを初陣として、以後57回の戦いに参加しながら一度も手傷を受けなかったが、その勇猛ぶりは、72年(元亀3)武田信玄(しんげん)との合戦のあとで「家康に過ぎたるものが二つあり、唐(から)の頭(かしら)に本多平八」と敵にはやされるほどであった。84年(天正12)長久手(ながくて)の戦いでの武者ぶりも著名。「徳川四天王」の一人とされる。88年従(じゅ)五位下中務大輔(なかつかさたゆう)。90年上総(かずさ)(千葉県)大多喜(おおたき)城主(10万石)。1601年(慶長6)伊勢(いせ)(三重県)桑名(くわな)に移封となったが、大多喜城は次男忠朝(ただとも)に与えられた。慶長(けいちょう)15年10月18日桑名で没。墓は同地の浄土寺(桑名市清水町)にある。[高木昭作]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

本多忠勝の関連キーワード柘植与一牧興相山岡如軒酒井貞月弘尊安土桃山時代安土桃山文化政常亀井玆矩伊勢・安土桃山文化村

今日のキーワード

パラチオン、パラチオンメチル

パラチオンは無色で油状の液体、パラチオンメチルはコハク色の液体。ともに毒性が強く、有機リン系殺虫剤として使用された。50年代以降、稲の害虫被害を防ぐことが確認され、広く導入された。しかし、農民の中毒死...

続きを読む

コトバンク for iPhone

本多忠勝の関連情報