朝日日本歴史人物事典 「本多政重」の解説
本多政重
生年:天正8(1580)
江戸前期の武将。加賀国金沢藩主前田氏の重臣本多氏の家祖。三河国岡崎辺で出生。初名倉橋長五郎,正木左兵衛,直江山城。通称は山城,安房守。老後は大夢居士と称す。本多正信の次男,正純の弟。12歳のころ徳川家譜代の倉橋長右衛門の養子となり14歳より奉仕。慶長2(1597)年8月徳川秀忠の乳母の子岡部庄八を斬殺し伊勢に逃れ,そのころ元服,姓名を変えて正木左兵衛と称す。まもなく京都で大谷吉隆に仕え,関ケ原の戦では西軍に属した。敗戦後は諸将の間を渡り歩いたが,同16年藤堂高虎の推挙により前田氏に仕えてやっと落ちついた。3万石の扶持を受け前田利常の命により本多安房守政重と称す。同8月には2万石を加増された。その著に『百戦百勝伝』(兵法の書)があり,伝記に子政長の自記による『本多政重伝』,『本多安房守政重事蹟抜抄』がある。
(藤實久美子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報