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本多正純 ほんだまさずみ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

本多正純
ほんだまさずみ

[生]永禄8(1565).三河
[没]寛永14(1637).3.10. 横手
江戸時代初期の大名。正信の長男。初名は弥八郎。徳川家康に近侍し,信任が厚かった。慶長5 (1600) 年の関ヶ原の戦いで捕われの身となった石田三成を預り,同 12年家康が駿府に移ると,その執政となって,秀忠に近侍する父正信とともに権勢をふるった。

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デジタル大辞泉の解説

ほんだ‐まさずみ【本多正純】

[1565~1637]江戸初期の大名。宇都宮城主。三河の人。正信の長男。通称、弥八郎。父とともに徳川家康に信任され、幕府創業に活躍。家康の死後、将軍秀忠の怒りを受け、出羽に流された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

本多正純 ほんだ-まさずみ

1565-1637 織豊-江戸時代前期の武将,大名。
永禄(えいろく)8年生まれ。本多正信の長男。徳川家康の側近として権勢をふるった。大坂冬の陣後の大坂城総堀の埋め立て,家康の葬儀・日光東照宮造営などを指揮。元和(げんな)5年下野(しもつけ)宇都宮藩15万5000石の藩主となったが,将軍秀忠にうとまれ8年に改易(かいえき)された。蟄居(ちっきょ)先の出羽(でわ)横手(秋田県)で寛永14年3月10日病没。73歳。三河(愛知県)出身。通称は弥八郎。上野介(こうずけのすけ)。

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朝日日本歴史人物事典の解説

本多正純

没年:寛永14.3.10(1637.4.5)
生年:永禄8(1565)
江戸初期の幕府年寄。正信の長男。通称弥八郎。幼少時から徳川家康のそばに日夜勤仕。慶長5(1600)年関ケ原の戦後,石田三成を預けられる。6年5月上野介 に叙任。12年家康が駿府に移ると,正純も従い,いわゆる駿府政権のブレーンとして外交から内政まであらゆる分野に関与し,秀忠付きの年寄である父と連携して権勢をふるった。10年ごろ,下野小山などで3万3000石。19年門閥譜代の大久保忠隣の改易は,本多父子との権力抗争に敗れたためといわれる。冬の陣の講和後,大坂城の総堀の埋め立てを奉行し,内堀までをも埋めさせ,大坂方の使者が抗議にきても病気と称して会わなかったという。元和2(1616)年家康が死ぬと,藤堂高虎と共に日光東照宮の造営を奉行した。秀忠政権下でも年寄として活動。5年加増され,下野国(栃木県)宇都宮藩主となり,15万5000石を領す。 8年10月,最上義俊が領地を没収されたとき,城受取りのため出羽山形に派遣され,任地において自身も改易の処分を伝えられ,出羽由利に配流された。このとき5万5000石の 賄 料を与えるとの内示があったが固辞。秀忠の言によれば,正純の行動は「日頃御奉公悪しく」とのことで,元和5年の城修築をめぐる安芸広島藩主福島正則の処分に当たり,「正則を改易に処すると,外様大名のうち10人ばかりが頭を剃ることになる」と秀忠を脅迫して改易を思いとどめさせようとしたことなどが咎められた。秀忠暗殺計画である「宇都宮釣り天井事件」は俗説であるが,秀忠はこの年の日光社参の帰途,宇都宮を急ぎ通過し,側近に宇都宮城の検分をさせており,疑いを持たれたことは事実である。9年1000石の賄料を与えられ,同国大沢に移り,寛永1(1624)年,佐竹義宣に預けられ横手に住し,同地にて死去。正平寺に葬られる。室は酒井重忠の娘。<参考文献>藤野保『新訂幕藩体制史の研究』,高木昭作『日本近世国家史の研究』

(山本博文)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

ほんだまさずみ【本多正純】

1565‐1637(永禄8‐寛永14)
江戸初期の大名。徳川家康の側近。家康・秀忠の2代にわたって,のちの大老または老中に相当する役割を果たした。正信の長男。幼名は千穂,のち弥八郎を襲名。幼時から家康に近侍し,すでに83年(天正11)には家康の文書の取次ぎを務めている。1600年(慶長5)関ヶ原の戦に家康に供奉し,戦後家康が大坂城西の丸に入って以降,側近として国政に参画。01年,従五位下上野介。とくに07年家康の駿府引退以後は側近第一人者として万事をとりしきり,その権勢は,秀忠の側近に配置された父正信とともに〈父子あいならびて天下の権をとる〉(新井白石《藩翰譜》)と後世評された。

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大辞林 第三版の解説

ほんだまさずみ【本多正純】

1565~1637) 江戸初期の大名。正信の長男。徳川家康の信任を受けて草創期の幕政に敏腕をふるい、宇都宮城主となったが、将軍秀忠の勘気を受け、出羽由利に配流された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

本多正純
ほんだまさずみ
(1565―1637)

徳川家康の側近。創業期の江戸幕府で後の老中の位置にあった。正信(まさのぶ)の第1子。三河(愛知県)に生まれ、幼名を千穂、のち弥八郎(やはちろう)と称す。幼少のころから家康の小姓(こしょう)を勤めていたらしく、すでに1582年(天正10)には家康の文書の発給に関与している。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いには家康に供奉(ぐぶ)し、翌年従(じゅ)五位下、上野介(こうずけのすけ)。このころから父正信とともに家康の側近第一人者として枢機に参画し、とくに07年家康の駿府(すんぷ)(静岡市)引退以後は正純は家康の側近にあり、父正信は江戸の秀忠(ひでただ)の側近として、父子協同して幕府権力確立に尽くした。16年(元和2)家康の臨終に立ち会い、葬礼や日光東照社造営などを指揮し、19年下野小山(しもつけおやま)(栃木県)3万3000石から同宇都宮15万5000石に加増されたが、22年城地を没収され出羽(でわ)(秋田県)由利(ゆり)に流された。家康の生前その信任をかさに秀忠に対して専横のふるまいが多く、また政策上の意見の対立があったのが原因と伝えられる。宇都宮城に釣天井(つりてんじょう)じかけの御殿をつくり秀忠暗殺を企てたという話があるが、偽りである。寛永(かんえい)14年3月10日出羽横手で没。[高木昭作]

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世界大百科事典内の本多正純の言及

【宇都宮[市]】より

…17年(元和3)家康の廟が造営されると宇都宮は日光の入口となり,宇都宮城は歴代将軍の日光社参には宿所となった。19年城主となった本多正純は城と城下町の大改造を行い,田川を東側の外濠とし,北の二荒山神社と城を切り離して互いに向き合う形とし,城内とその西側に武家屋敷,さらに西側に南から日光道中沿いに約10町,伝馬町から東に分岐する奥州道中沿いに二荒山神社をはさんで西に上町,東に下町の20余町,最北部と南の入口に寺院を配置した。この時開かれた上町に対し,下町は古く奥州道中沿いに発展した町で,大町には奥平氏時代の1614年に始まる大膳市があり,青物,魚類などの5・10の六斎市が立った。…

【宇都宮釣天井事件】より

…宇都宮城主本多正純が,1622年(元和8)4月,日光参詣の帰路に同城に止宿する予定の2代将軍徳川秀忠を,釣天井などをしかけた御殿で殺そうとしたといわれる事件。秀忠が急に宇都宮をたって夜通しの強行軍で江戸城に帰った事実と,この年の10月の秀忠による正純改易や越前北ノ庄(福井)城主松平忠直(翌年隠居,流罪)の謀反のうわさとが結びついて,できあがった巷説と考えられる。…

【宇都宮藩】より

…1600年徳川家康の外孫奥平家昌が10万石で入封し,以後東北地方への押え,日光東照宮の入口として徳川譜代の臣が藩主となった。1619‐22年(元和5‐8)の本多正純は15万5000石を領有し,宇都宮城の拡大,城下町の改造,日光への街道の整備を行うとともに,領内の検地を実施したが,突然改易となり,復帰した奥平氏も1668年(寛文8)忠昌の死後,寵臣杉浦右衛門兵衛の殉死,藩内対立などから山形へ移されるが,このころまでが藩体制確立期であった。以後松平忠弘15万石,81年(天和1)本多忠平10万石,85年(貞享2)奥平昌章9万石,97年(元禄10)阿部正邦10万石,1710年(宝永7)戸田忠昌6万7800石,49年(寛延2)松平忠祇(ただまさ)6万5900石と約80年間に6家が交代した。…

【岡本大八事件】より

…江戸初期,徳川家康の側近本多正純の与力でキリシタンの岡本大八(洗礼名パウロ)が,1610年1月(慶長14年12月)ポルトガル船ノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号(一名,マードレ・デ・デウス号)を爆沈させたキリシタン大名有馬晴信から,その恩賞斡旋にかこつけて多額の金品を詐取した事件。12年大八は下獄し晴信の長崎奉行長谷川左兵衛謀殺の企てを訴えて対決した。…

【小山[市]】より

…小山政光が思川東岸の丘陵に築いた小山城(祇園城)は1590年(天正18)小田原征伐に伴い小山氏が滅亡して破却された。3万3000石を与えられて小山城を再興した本多正純は1617年(元和3)日光造営工事を指揮したので,思川の乙女河岸で陸揚げされた資材は小山,壬生(みぶ)経由で送られた。正純は19年宇都宮に移り,小山城は廃され,小山は以後日光道中の宿場として重視された。…

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