(山本博文)
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江戸初期の大名。徳川家康の側近。家康・秀忠の2代にわたって,のちの大老または老中に相当する役割を果たした。正信の長男。幼名は千穂,のち弥八郎を襲名。幼時から家康に近侍し,すでに83年(天正11)には家康の文書の取次ぎを務めている。1600年(慶長5)関ヶ原の戦に家康に供奉し,戦後家康が大坂城西の丸に入って以降,側近として国政に参画。01年,従五位下上野介。とくに07年家康の駿府引退以後は側近第一人者として万事をとりしきり,その権勢は,秀忠の側近に配置された父正信とともに〈父子あいならびて天下の権をとる〉(新井白石《藩翰譜》)と後世評された。10年ごろに下野小山(おやま)で3万3000石。14年大坂冬の陣和睦後,奉行として大坂城惣堀の埋立てを指揮。16年(元和2)家康の臨終に天海とともに立ちあい,葬儀,ついで日光東照社造営を指揮した。以降,秀忠の老臣として幕政に参与し,19年下野宇都宮で15万5000石。22年,最上家改易に際し領地接収の総指揮者として山形に駐留中に,自身も改易され,出羽由利(ゆり)に流された。翌年同国大沢に移され,翌24年(寛永1)秋田の佐竹家に預けられ同国横手に幽囚,37年横手で没。家康の信任をかさに専横のふるまいが多く,また秀忠との政策上の対立が改易の原因であり,〈宇都宮釣天井事件〉は信じ難い。しかしこの改易の前後に,松平忠直の動静と関連して,諸大名の一部による秀忠への謀反のうわさが江戸に流布したのは事実である。
執筆者:高木 昭作
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徳川家康の側近。創業期の江戸幕府で後の老中の位置にあった。正信(まさのぶ)の第1子。三河(愛知県)に生まれ、幼名を千穂、のち弥八郎(やはちろう)と称す。幼少のころから家康の小姓(こしょう)を勤めていたらしく、すでに1582年(天正10)には家康の文書の発給に関与している。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いには家康に供奉(ぐぶ)し、翌年従(じゅ)五位下、上野介(こうずけのすけ)。このころから父正信とともに家康の側近第一人者として枢機に参画し、とくに07年家康の駿府(すんぷ)(静岡市)引退以後は正純は家康の側近にあり、父正信は江戸の秀忠(ひでただ)の側近として、父子協同して幕府権力確立に尽くした。16年(元和2)家康の臨終に立ち会い、葬礼や日光東照社造営などを指揮し、19年下野小山(しもつけおやま)(栃木県)3万3000石から同宇都宮15万5000石に加増されたが、22年城地を没収され出羽(でわ)(秋田県)由利(ゆり)に流された。家康の生前その信任をかさに秀忠に対して専横のふるまいが多く、また政策上の意見の対立があったのが原因と伝えられる。宇都宮城に釣天井(つりてんじょう)じかけの御殿をつくり秀忠暗殺を企てたという話があるが、偽りである。寛永(かんえい)14年3月10日出羽横手で没。
[高木昭作]
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1565~1637.3.10
江戸初期の大名。正信の長男。徳川家康に仕え,側近として信任された。家康が将軍職を秀忠に譲り,1607年(慶長12)から駿府で幕政を統轄すると,最高実力者として政務を統轄。とくに外交・貿易面での権限は絶大であった。同年下野国小山藩主3万3000石。14年大坂冬の陣の講和後,豊臣側をあざむいて大坂城の内堀を埋めさせた。家康の死後,秀忠に仕え19年(元和5)下野国宇都宮藩主15万5000石。22年出羽国山形藩主最上氏の改易で城受取りに出向した留守に改易され,出羽国横手へ配流された。
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…17年(元和3)家康の廟が造営されると宇都宮は日光の入口となり,宇都宮城は歴代将軍の日光社参には宿所となった。19年城主となった本多正純は城と城下町の大改造を行い,田川を東側の外濠とし,北の二荒山神社と城を切り離して互いに向き合う形とし,城内とその西側に武家屋敷,さらに西側に南から日光道中沿いに約10町,伝馬町から東に分岐する奥州道中沿いに二荒山神社をはさんで西に上町,東に下町の20余町,最北部と南の入口に寺院を配置した。この時開かれた上町に対し,下町は古く奥州道中沿いに発展した町で,大町には奥平氏時代の1614年に始まる大膳市があり,青物,魚類などの5・10の六斎市が立った。…
…宇都宮城主本多正純が,1622年(元和8)4月,日光参詣の帰路に同城に止宿する予定の2代将軍徳川秀忠を,釣天井などをしかけた御殿で殺そうとしたといわれる事件。秀忠が急に宇都宮をたって夜通しの強行軍で江戸城に帰った事実と,この年の10月の秀忠による正純改易や越前北ノ庄(福井)城主松平忠直(翌年隠居,流罪)の謀反のうわさとが結びついて,できあがった巷説と考えられる。…
…1600年徳川家康の外孫奥平家昌が10万石で入封し,以後東北地方への押え,日光東照宮の入口として徳川譜代の臣が藩主となった。1619‐22年(元和5‐8)の本多正純は15万5000石を領有し,宇都宮城の拡大,城下町の改造,日光への街道の整備を行うとともに,領内の検地を実施したが,突然改易となり,復帰した奥平氏も1668年(寛文8)忠昌の死後,寵臣杉浦右衛門兵衛の殉死,藩内対立などから山形へ移されるが,このころまでが藩体制確立期であった。以後松平忠弘15万石,81年(天和1)本多忠平10万石,85年(貞享2)奥平昌章9万石,97年(元禄10)阿部正邦10万石,1710年(宝永7)戸田忠昌6万7800石,49年(寛延2)松平忠祇(ただまさ)6万5900石と約80年間に6家が交代した。…
…江戸初期,徳川家康の側近本多正純の与力でキリシタンの岡本大八(洗礼名パウロ)が,1610年1月(慶長14年12月)ポルトガル船ノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号(一名,マードレ・デ・デウス号)を爆沈させたキリシタン大名有馬晴信から,その恩賞斡旋にかこつけて多額の金品を詐取した事件。12年大八は下獄し晴信の長崎奉行長谷川左兵衛謀殺の企てを訴えて対決した。…
…小山政光が思川東岸の丘陵に築いた小山城(祇園城)は1590年(天正18)小田原征伐に伴い小山氏が滅亡して破却された。3万3000石を与えられて小山城を再興した本多正純は1617年(元和3)日光造営工事を指揮したので,思川の乙女河岸で陸揚げされた資材は小山,壬生(みぶ)経由で送られた。正純は19年宇都宮に移り,小山城は廃され,小山は以後日光道中の宿場として重視された。…
※「本多正純」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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