朽木庄(読み)くつきのしよう

日本歴史地名大系 「朽木庄」の解説

朽木庄
くつきのしよう

現在の朽木村周辺を庄域とした。長保三年(一〇〇一)平惟仲が白川寺喜多院(寂楽寺)に寄進した庄園のうちに「高島郡朽木庄壱所」とみえる(同年六月二六日「平惟仲施入状案」高野山文書)。長承二年(一一三三)七月一二日の明法博士中原明兼勘注(近衛家本知信記天承二年巻裏文書)によれば、寛弘八年(一〇一一)七月一九日の寂楽寺寄文をひいて、朽木庄とは別に朽木杣が記され、朽木庄と朽木杣は別個の支配を受けている。これによれば朽木杣の四至は「東限加之尾并角谷 南限嶋山 西限久勢尾丹波国堺 北限若狭国木春山峯」とある。朽木杣のうち、耕地・在家所在地が朽木庄であるといえよう。朽木杣は古くから木材の産地として都に知られ、多くの歌に詠まれている。

<資料は省略されています>

弘安一〇年(一二八七)二月二八日の佐々木頼綱譲状案(朽木文書、以下集合文書名のないものは同文書)に「近江国朽木庄承久勲功 祖父近江守信綱拝領所也」とあり、承久の乱の勲功によって、佐々木信綱が地頭職を得たことがわかる。永仁七年(一二九九)には隣庄山城国久多くた(現京都市左京区)庄民が、所産材木船筏に組んで安曇あど川で運送する際、朽木庄の地頭代と庄民らがそれを途中で抑留するという事件が発生した。相論の結果、久多庄より所出する材木の十分一を朽木側が獲得することとなった(永仁七年久多庄地頭代貞能・朽木庄地頭代祐聖連署和与状)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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