東二見村(読み)ひがしふたみむら

日本歴史地名大系 「東二見村」の解説

東二見村
ひがしふたみむら

[現在地名]明石市二見町東二見ふたみちようひがしふたみ

加古郡東端印南野いなみの台地の中南部に位置し、播磨灘沿いに開けた村。東は明石郡西にしおか村。平安期成立の「住吉大社神代記」に明石郡魚次なすき浜一処の四至として「東限大久保尻限、南限海棹及際、西限歌見江尻限、北限大路」とある。魚次は魚住うおずみのことで歌見うたみは二見のことという。寛弘二年(一〇〇五)四月二二日、藤原高遠が大宰大弐として大宰府に赴く途中の歌に、「ふたみの浦にて」として「たまくしげあけてみつれどあさぼらけふたみの浦は猶なみぞよる」がある(大弐高遠集)。「今昔物語集」巻一七に印南いなみ郡「哥見ノ浦」の極楽寺の僧の話が載る。時光じこう(現高砂市)の縁起によると、建長元年(一二四九)時光(源経家)が夢告により東は高砂阿閉あえ(現加古郡)、二見、西は飾磨しかま(現姫路市)の浦で網を引き霊像を得たと伝える(「播州遍照山時光寺縁起」智恵袋)。元弘二年(一三三二)三月一二日配流先の隠岐島に向かう後醍醐天皇は「ふたみの浦」を通って加古川の宿に着いた(増鏡)。文安二年(一四四五)九月一四日神用米三五石を積んだ二見船籍の船が兵庫北関に入津している(兵庫北関入船納帳)

慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳では田高七八七石余・畑高一〇五石余。元禄郷帳では高一千一七五石余。慶長五年(一六〇〇)池田輝政領、元和三年(一六一七)明石藩領、寛永九年(一六三二)幕府領(播州明石記録)。延享元年(一七四四)大坂城代堀田正亮(出羽山形藩)(「天保校訂紀氏雑録」日産厚生会佐倉厚生園蔵)、安永七年(一七七八)大坂城代(天明元年京都所司代)牧野貞長(常陸笠間藩)領となり、天明四年(一七八四)上知(同七年「牧野貞長村寄」笠間稲荷神社蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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