東西市
とうざいのいち
古代の都城の市
唐制をまねた大宝令によって703年藤原京に設けられたのが最初で,ひきつづき平城京・平安京にも置かれた。平安京では,東市・西市が朱雀大路をはさんで七条あたりに置かれ,月の前半は東市,後半は西市が開かれ,交易される商品も定められた。京職に属する官人である市司 (いちのつかさ) と市人によって運営される官設の市場であったが,市女 (いちめ) と呼ばれる商いをする女があり,庶民の交流の場でもあった。また公開の処刑場でもあり,辻説法の場でもあった。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の東西市の言及
【市】より
…同様のことは《日本書紀》持統3年(689)11月丙戌条に見える〈中市〉についても言えるが,その所在地は明らかでない。このような初期の市の中には,都宮との関係が深いものが存在し,都城の成立とともに,藤原京の〈市〉や平城京以後の〈東西市(東市・西市)〉,難波京の〈難波市〉など,市司(いちのつかさ)の管理する市へとうけつがれた。これに対して〈餌香市〉〈阿斗桑市〉は,河内の交通の要地に立地した市であるが,河内以外にも《日本書紀》天武1年(672)7月壬子条にみえる近江の〈粟津市〉のごとく各地に市が存在していたとみてよい。…
【東市・西市】より
…ついで平城京,長岡京,平安京には東西2市が置かれ,東市司・西市司([市司](いちのつかさ))によって管轄されていた(図)。740年(天平12)末の恭仁京(くにきよう)遷都や745年の平城京還都はいずれも東西市の移動を伴っており,紫香楽宮(しがらきのみや)にも市が設けられ,難波京にも難波市が存在した。このように都城と市とは不可分のものであった。…
【市】より
…同様のことは《日本書紀》持統3年(689)11月丙戌条に見える〈中市〉についても言えるが,その所在地は明らかでない。このような初期の市の中には,都宮との関係が深いものが存在し,都城の成立とともに,藤原京の〈市〉や平城京以後の〈東西市(東市・西市)〉,難波京の〈難波市〉など,市司(いちのつかさ)の管理する市へとうけつがれた。これに対して〈餌香市〉〈阿斗桑市〉は,河内の交通の要地に立地した市であるが,河内以外にも《日本書紀》天武1年(672)7月壬子条にみえる近江の〈粟津市〉のごとく各地に市が存在していたとみてよい。…
※「東西市」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」