改訂新版 世界大百科事典 「東市西市」の意味・わかりやすい解説
東市・西市 (ひがしのいちにしのいち)
日本古代の都城に付設された官市。その存在が確認される初めは藤原京の場合で,宮の北面中門から出土した木簡に糸90斤を沽却(売却)する〈市〉のことがみえる。また《続日本紀》慶雲2年(705)6月乙亥条にも〈市廛〉や〈南門〉のことがみえる。しかしこの〈市〉が東西にわかれていたか否かは明らかでない。ついで平城京,長岡京,平安京には東西2市が置かれ,東市司・西市司(市司(いちのつかさ))によって管轄されていた。740年(天平12)末の恭仁京(くにきよう)遷都や745年の平城京還都はいずれも東西市の移動を伴っており,紫香楽宮(しがらきのみや)にも市が設けられ,難波京にも難波市が存在した。このように都城と市とは不可分のものであった。
平城京東西市の所在地は,東市が左京8条3坊,西市が右京8条2坊であり,丘陵のため西市が1坊分東によっている。知恩院所蔵〈市指図〉によって,従来は各坊の5・6・7・10・11・12の6坪分を市と考えてきたが,同図の再検討により,5・6・11・12の4坪と見るべきことが明らかにされた。平安京の場合は,古図によると,左右京7条2坊3・4・5・6坪が〈市町〉で,その周囲に〈外町〉なる区画が各2坪ずつ計8坪分拡張されている。市内では市人(《延喜式》では市人籍帳に登録された市籍人)が品目別の鄽(てん)/(みせ)(令では肆(いちくら))で売買を行っていた。《日本霊異記》中巻19話によると,平城京東市には東西の門があったことが知られるが,前述の藤原京の市の場合からみて,おそらく南北にも門が開いていたのであろう。また《万葉集》によると,樹種は不明だが,東市には〈植木〉が植えられていたことがわかる。
《正倉院文書》等によって平城京東西市で売買されたことが確認できる物品は,穀物,繊維製品,手工業製品,蔬菜,果物,海藻,調味料等多品目にのぼる。平安京の場合は,《延喜式》に東市51(鄽),西市33の品目別のが列挙されている。これらの物品の供給源は明らかでないが,生菜・生果などの生鮮食料品は京近辺で栽培採集されたものであろう。また,官司・官人に支給された調庸物がその一つであったとするのも有力な仮説である。すなわち官司・官人は官衙費や給与として支給された調庸物を東西市で売却して銭に換え,その銭で必要とする多種多品目の物品を購入したと考えるのである。その際,東西市のみで,全官司・官人の必要とするあらゆる種類の物資をいつでも必要量だけ供給しうるとは限らない。かかる物資の供給は,泉津,宇治津,難波などの東西市と水陸交通で緊密に結びついた結節点,および東西市によって構成される中央交易圏全体で果たされていたと考えられる。したがって,官司,寺院,上級貴族官人等は,多かれ少なかれこのような中央交易圏に対応して要所要所に荘所をもち,必要に応じて各所に交易使を派遣していた。たとえば造東大寺司は東市荘,西市荘,泉木屋所,宇治司所,勢多荘などを配置し,難波交易使を派遣していた。
→市
執筆者:栄原 永遠男
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