日本歴史地名大系 「西市」の解説
西市
にしのいち
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…同様のことは《日本書紀》持統3年(689)11月丙戌条に見える〈中市〉についても言えるが,その所在地は明らかでない。このような初期の市の中には,都宮との関係が深いものが存在し,都城の成立とともに,藤原京の〈市〉や平城京以後の〈東西市(東市・西市)〉,難波京の〈難波市〉など,市司(いちのつかさ)の管理する市へとうけつがれた。これに対して〈餌香市〉〈阿斗桑市〉は,河内の交通の要地に立地した市であるが,河内以外にも《日本書紀》天武1年(672)7月壬子条にみえる近江の〈粟津市〉のごとく各地に市が存在していたとみてよい。…
…この隋・唐の長安城の規模は東西9.7km,南北8.2kmで,外郭城の周囲にめぐらされた羅城は,すべて版築でつくられた土城であり,その厚さは城基の部分で,9~12mあった。その中央最北部に宮城,その南に官庁街ともいうべき皇城がそれぞれ位置し,皇城の南東と南西にそれぞれ商業区域たる東市と西市がおかれた。城内の中央を南北に走る幅150mの大街道たる朱雀門街によって分けられた東半分の左街は万年県,西半分の右街は長安県の行政下にあり,それぞれ55坊ずつの居住区を,東市,西市とあわせ管轄した。…
…南東部を瀬戸内海に注ぐ木屋(こや)川が南流し,北部は日本海に注ぐ粟野川流域を占める。中心地の西市は木屋川の沖積平野に開けた市場町で,古代から中世にかけて豪族豊田氏の本拠地であった。山口と響灘沿岸を結ぶ肥中街道,山陽と山陰を結ぶ赤間関街道が交差する地で,近世には宿場町としても栄えた。…
…しかしこの〈市〉が東西にわかれていたか否かは明らかでない。ついで平城京,長岡京,平安京には東西2市が置かれ,東市司・西市司(市司(いちのつかさ))によって管轄されていた(図)。740年(天平12)末の恭仁京(くにきよう)遷都や745年の平城京還都はいずれも東西市の移動を伴っており,紫香楽宮(しがらきのみや)にも市が設けられ,難波京にも難波市が存在した。…
※「西市」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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