西市(読み)にしのいち

日本歴史地名大系 「西市」の解説

西市
にしのいち

延暦一三年(七九四)の平安京開設とともに、東市ひがしのいちと並び設置された(日本後紀)官設市場。東西が西大宮大路から西堀川小路、南北が七条大路から七条坊門小路に至る方四町の地として開設されたと思われるが、その後拡大し「拾芥抄」の西京図では西大宮東二町、七条坊門北二町、西堀川西二町を加えて計一〇町の地を市町としている。

市の開催日は「延喜式」に「凡毎月十五日以前集東市、十六日以後集西市」とあり、西市は一ヵ月の後半に開かれ、その時間は「関市令」に「凡市、恒以午時集、日入前、撃鼓三度散」とあり、正午に始まり日没前に解散した。

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改訂新版 世界大百科事典 「西市」の意味・わかりやすい解説

西市 (にしのいち)

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普及版 字通 「西市」の読み・字形・画数・意味

【西市】せいし

都の西の市。

字通「西」の項目を見る

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旺文社日本史事典 三訂版 「西市」の解説

西市
にしのいち

古代の都に東市とともに置かれた官営市場。

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世界大百科事典(旧版)内の西市の言及

【市】より

…同様のことは《日本書紀》持統3年(689)11月丙戌条に見える〈中市〉についても言えるが,その所在地は明らかでない。このような初期の市の中には,都宮との関係が深いものが存在し,都城の成立とともに,藤原京の〈市〉や平城京以後の〈東西市(東市・西市)〉,難波京の〈難波市〉など,市司(いちのつかさ)の管理する市へとうけつがれた。これに対して〈餌香市〉〈阿斗桑市〉は,河内の交通の要地に立地した市であるが,河内以外にも《日本書紀》天武1年(672)7月壬子条にみえる近江の〈粟津市〉のごとく各地に市が存在していたとみてよい。…

【都城】より

…この隋・唐の長安城の規模は東西9.7km,南北8.2kmで,外郭城の周囲にめぐらされた羅城は,すべて版築でつくられた土城であり,その厚さは城基の部分で,9~12mあった。その中央最北部に宮城,その南に官庁街ともいうべき皇城がそれぞれ位置し,皇城の南東と南西にそれぞれ商業区域たる東市と西市がおかれた。城内の中央を南北に走る幅150mの大街道たる朱雀門街によって分けられた東半分の左街は万年県,西半分の右街は長安県の行政下にあり,それぞれ55坊ずつの居住区を,東市,西市とあわせ管轄した。…

【豊田[町]】より

…南東部を瀬戸内海に注ぐ木屋(こや)川が南流し,北部は日本海に注ぐ粟野川流域を占める。中心地の西市は木屋川の沖積平野に開けた市場町で,古代から中世にかけて豪族豊田氏の本拠地であった。山口と響灘沿岸を結ぶ肥中街道,山陽と山陰を結ぶ赤間関街道が交差する地で,近世には宿場町としても栄えた。…

【東市・西市】より

…しかしこの〈市〉が東西にわかれていたか否かは明らかでない。ついで平城京,長岡京,平安京には東西2市が置かれ,東市司・西市司(市司(いちのつかさ))によって管轄されていた(図)。740年(天平12)末の恭仁京(くにきよう)遷都や745年の平城京還都はいずれも東西市の移動を伴っており,紫香楽宮(しがらきのみや)にも市が設けられ,難波京にも難波市が存在した。…

※「西市」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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