東市(読み)ひがしのいち

日本歴史地名大系 「東市」の解説

東市
ひがしのいち

延暦一三年(七九四)の平安京開設とともに、西市にしのいちと並び設置された(日本後紀)官設市場。東西が大宮おおみや大路から堀川ほりかわ小路、南北が七条大路から七条坊門に至る方四町の地で、そのうち「拾芥抄」に「東市屋 七条ノ坊門南猪熊東」とあるように、北東の方一町が市屋いちや、その南側方一町が市の監督である市司の役所であった。この四町は現在、西本願寺の南半分(門前町)と、興正こうしよう(花園町)・竜谷大学(大工町・御器屋町・西八百屋町のそれぞれ一部)の地にあたる。一〇世紀に入ると、更にその外側に外町が形成され、一二町の範囲に広がり、市籍人以外の居住者は地子を納めていた(延喜式)

市を監督する市司の役割を「職員令」は「掌、財貨交易、器物真偽、度量転重、売買估価、禁察非違事」とする。


東市
ひがしのいち

[現在地名]豊田町大字殿敷 東市、大字中村 東市

豊田平野の北東部やや中央寄りで木屋こや川東の山手側にあり、中世から江戸時代にかけて豊田地方の中心として栄えた市。

平安時代末期に豪族豊田氏は、豊田平野の南東部山間のいちに居館を構えると、豊田盆地内で早くから開けていた木屋川東側に若宮わかみや八幡宮を創建。この神社の南で、交通の要所でもあった地が市として発達したらしい。赤間関あかまがせき(現下関市)と結ぶのちの赤間関街道(北道筋)も、古くは木屋川東岸を通り、東市には多くの街道が集まっていた。

東市の名の由来を「地下上申」は「最初ひがし市有之たる時分に、西に市出来仕候故西市と相定、夫已来東市・西市と申ならはしたると申伝候」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「東市」の解説

東市
ひがしのいち

古代の都に西市とともに置かれた官営市場。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の東市の言及

【市】より

…同様のことは《日本書紀》持統3年(689)11月丙戌条に見える〈中市〉についても言えるが,その所在地は明らかでない。このような初期の市の中には,都宮との関係が深いものが存在し,都城の成立とともに,藤原京の〈市〉や平城京以後の〈東西市(東市・西市)〉,難波京の〈難波市〉など,市司(いちのつかさ)の管理する市へとうけつがれた。これに対して〈餌香市〉〈阿斗桑市〉は,河内の交通の要地に立地した市であるが,河内以外にも《日本書紀》天武1年(672)7月壬子条にみえる近江の〈粟津市〉のごとく各地に市が存在していたとみてよい。…

【都城】より

…この隋・唐の長安城の規模は東西9.7km,南北8.2kmで,外郭城の周囲にめぐらされた羅城は,すべて版築でつくられた土城であり,その厚さは城基の部分で,9~12mあった。その中央最北部に宮城,その南に官庁街ともいうべき皇城がそれぞれ位置し,皇城の南東と南西にそれぞれ商業区域たる東市と西市がおかれた。城内の中央を南北に走る幅150mの大街道たる朱雀門街によって分けられた東半分の左街は万年県,西半分の右街は長安県の行政下にあり,それぞれ55坊ずつの居住区を,東市,西市とあわせ管轄した。…

【市】より

…同様のことは《日本書紀》持統3年(689)11月丙戌条に見える〈中市〉についても言えるが,その所在地は明らかでない。このような初期の市の中には,都宮との関係が深いものが存在し,都城の成立とともに,藤原京の〈市〉や平城京以後の〈東西市(東市・西市)〉,難波京の〈難波市〉など,市司(いちのつかさ)の管理する市へとうけつがれた。これに対して〈餌香市〉〈阿斗桑市〉は,河内の交通の要地に立地した市であるが,河内以外にも《日本書紀》天武1年(672)7月壬子条にみえる近江の〈粟津市〉のごとく各地に市が存在していたとみてよい。…

※「東市」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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