日本古代において京域内を統轄するため,一般の地方行政組織(国郡制)とは別に特別に置いた官司。京職のことは685年(《日本書紀》天武14年3月条)に初めてみえるから,日本の古代京域は天武天皇の飛鳥浄御原宮の造営に伴って形成されたものであるらしい。京師を左右に分かちそれぞれに京職を設けることは,701年(大宝1)の大宝令発布以降の藤原京においてであるといわれ,以後の都城にうけつがれた。養老令によると,左右京職にはそれぞれ大夫(長官)1人,亮(次官)1人,大進(判官)1人,少進2人,大属(主典)1人,少属2人がおり,これら四等官のほかに坊令12人,使部,直丁が配されている。彼らの職掌は諸国の国司のそれにほぼ等しく,京内の行政・司法・警察のことをつかさどった。京職の庁舎は朱雀門前の坊内に所在していた。平安時代に入ると京職の職権はほとんど検非違使(けびいし)に移り有名無実な存在になった。官営市場を管理する東西市司は京職に属する。
執筆者:狩野 久
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古代律令(りつりょう)国家における京の行政をつかさどった官司。和訓は「みさとのつかさ」。早く天武(てんむ)朝の飛鳥(あすか)京に京職が置かれたが、機構的に整ってくるのは藤原京以後である。当初単一の京職であったが、大宝令施行後、京域を朱雀(すざく)大路で東西に分け、左京職・右京職となった。左右京職にそれぞれ大夫(たいふ)以下の四等官と坊令(ぼうれい)を任じた。大夫は、京内の戸口、戸籍、田宅、租税、身分、訴訟、交易、兵士、道橋など広範囲の職務にあたった。京畿内(きょうきない)七道諸国と総称される律令制の行政組織において、京職は国司とほぼ対応する位置を占めた。坊令は京内条坊の坊ごとに置いた。平安時代、律令国家の衰退に伴い、司法、検察の権限は弾正台(だんじょうだい)や検非違使(けびいし)にとってかわられた。
[八木 充]
律令制下に京を管轄した中央官司。古訓はミサトツカサ。京が左右京からなっていたことと対応して,左京職・右京職がおかれた。長官の大夫(かみ),亮(すけ),大進(だいじょう)・少進,大属(だいさかん)・少属の四等官と,使部(しぶ)・直丁(じきちょう)・坊令からなり,東西市を管轄した東西市司も指揮下においた。地方の国司と同じく,京の行政全般を統轄したが,国司が外官だったのに対し,京職は内官(京官)として扱われた。京職の存在は,すでに7世紀後半の天武朝でも知られ,持統・文武両朝の藤原京の時代にもあったが,京職が左右に分化したのは大宝律令の成立以後。このような官員や職掌が整うのも,大宝律令の制定にともなう改革と推定される。
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…しかし11世紀後半になると,条坊内部の土地と区別された巷所が出現する。政府は道路を管理する京職(きようしき)に命じて巷所を禁止する方針をとっており,初期の巷所,特に小規模のものは不安定であった。しかし巷所はますます増大し,13世紀末から14世紀初めごろに,政府は巷所禁止の原則を放棄した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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