東長田村(読み)ひがしながたむら

日本歴史地名大系 「東長田村」の解説

東長田村
ひがしながたむら

[現在地名]坂井町東長田

徳分田とくぶんでん村の南にあり、南方兵庫ひようご川が西流する。明治九年(一八七六)の地籍図には北垣内きたがいち面屋おもや垣内道場どうじよう垣内・角屋かどや垣内・みなみ垣内・みや垣内・西にし垣内の字地がある。鎌倉・室町時代には皇室を本所とする長田小森ながたこもり保の一部であったと思われる。天文六年(一五三七)の朝倉三奉行十郷用水掟書(大連家文書)に「一、就今度東長田用水由事、服部彦右衛門尉・中村九三右被遣検使処、鳴鹿普請□依不届及申事」また「一、東長田樋之事、広壱尺八寸、長壱尺壱寸三分内ノリ、此樋水五寸三分、先年之以定杭如此、万一此水主不樋者、可訴訟之由東長田被仰付之事」とみえる。

東長田村
ひがしながたむら

[現在地名]諫早市長田町・正久寺町しようきゆうじちよう高天町こうてんちよう白木峰町しらきみねまち

西長田村の東、本明ほんみよう川の河口部北岸に位置する。諫早湾に臨み、諫早街道が通る。近世は諫早郷に属し、江戸時代は肥前佐賀藩親類同格の諫早家領。寛文四年(一六六四)の鍋島光茂領知目録(寛文朱印留)に東長田村とみえ、大小配分石高帳では地米高二九七石余。寛延三年(一七五〇)の諫早一揆では新内が生害に処された(諫早日記)。天明七年(一七八七)の佐賀領村々目録では高四一〇石余。

東長田村
ひがしながたむら

[現在地名]館山市東長田

南条なんじよう村の南に位置し、汐入しおいり川の支流長田川右岸の谷に展開する。西は西長田村。北部の字熊野くまのには三七基の横穴墓群、字やつには明治三二年(一八九九)に発見された七世紀前半の祭祀遺跡がある。中世長田保の遺称地とされる。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では高二四六石余(うち田一八二石余)、同一五年の里見家分限帳によると里見家の直接支配地。正保郷帳では高三五五石余(うち田二七二石余)、旗本石川領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報