松ヶ崎村(読み)まつがさきむら

日本歴史地名大系 「松ヶ崎村」の解説

松ヶ崎村
まつがさきむら

[現在地名]左京区松ヶ崎〈泉川いずみがわ町・壱町田いつちようだ町・井出いで海道かいどう町・井手ヶばな町・今海道いまかいどう町・榎実えのみしば大谷おおたに海尻かいじり町・河原田かわはらだ町・北裏きたうら町・狐坂きつねざか木燈籠きとうろう町・もと町・きようだに久土くど町・雲路くもじ町・鞍馬田くらまだ町・御所海道ごしよかいどう町・御所ごしようち町・小竹藪こたけやぶ町・小脇こわき町・桜木さくらぎ町・ささだに三反長さんだんおさ町・芝本しばもと町・修理式しゆうりしき町・じようたに正田しようでん町・城山しろやますぎ海道かいどう町・千石岩せんごくいわ総作そうさく町・高山たかやま糺田ただすでん町・どう町・中町なかまち中海道なかかいどう町・西町にしまち西池にしいけうち町・西桜木にしさくらぎ町・西山にしやま寝子ねねやま橋上はしかみ町・林山はやしやまひがし町・東池ひがしいけうち町・東桜木ひがしさくらぎ町・東山ひがしやま町・平田ひらた町・堀町ほりまち丸子まるこ深泥池端みどろいけばた南池みなみいけうち町・むらうち町・柳井田やないだ町・横縄手よこなわて町・呼返よびかえり町・ろくつぼ町〉

東は高野河原たかのがわら、西は上賀茂かみがも(現北区)、北は幡枝はたえだ、南は下鴨しもがもの各村と接する。高野川の西に位置し、宝ヶ池を村中に含んでその南部に展開する。

松ヶ崎の名は、「日本紀略」弘仁元年(八一〇)一〇月二七日条の「禊於松崎川、縁大嘗会事也」をその早い例とするが、松崎川における禊は、同書天暦元年(九四七)六月二七日条にもみられる。平安時代にはこの地に陵戸田もおかれ、永久元年(一一一三)一二月付の玄蕃寮牒案(柳原家記録)に、

<資料は省略されています>

と記される。

松ヶ崎村
まつがさきむら

[現在地名]畑野町松ヶ崎

南西は多田おおだ村、北は岩首いわくび(現両津市)、東は海、西は山地。集落は海岸沿いに大きく東と西に分れ、青木あおき奥町おくまち出口でぐち本町ほんまち東町ひがしまち荒町あらまち中西なかにし西町にしまちなどがある。西町の端から四〇〇メートル隔てた所に、うら川内かわちの集落がある。浦ノ川内は小さな川沿いに奥に延びた純農村で、名主などを別にもつ独立村の観があるが、行政上はつねに松ヶ崎村の一部として扱われている。「和名抄羽茂はもち郡内の松前まつさき郷に比定され、「延喜式」兵部省の松埼まつさき駅の地にも比定される。永享六年(一四三四)に流罪となった世阿弥の「金島集」にみえる「大田のうら」も多田村・松ヶ崎村を併せた地域とみられる。港の位置については現舟付ふなつきのほか、口承されている所が数ヵ所に及ぶ。こう鼻とよばれる砂嘴は、高波や海流によりたえず形を変えたので、港の位置も一定しなかったためである。

松ヶ崎村
まつがさきむら

[現在地名]柏市松ヶ崎・松葉町まつばちよう二―五丁目・同七丁目など

高田たかた村の東方、手賀てが沼に流れ込む大堀おおほり川と地金じがね落に挟まれた台地(松ヶ崎台地)上に位置する。北は花野井はなのい村、東は根戸ねど村。慶安(一六四八―五二)頃の成立とされる高城胤忠旧知行高付帳に村名が載り、高五九石余。元禄一一年(一六九八)本多正永領となり(本多四公日記)、以後の変遷は篠籠田しこだ村に同じ。同一三年頃の下総国各村級分では高二三四石余。寛保元年(一七四一)の郷差出帳(渡辺家文書)によると反別は田三一町二反余・畑二六町五反余・屋敷九反余、新高は七斗余で、内訳は下々畑三反余、ほかに松御林が一町余。また享保一五年(一七三〇)に高入れされた四斗余(四反余)・林畑永二貫余があり、これは小金こがね牧の開発によるものと思われる。

松ヶ崎村
まつがさきむら

[現在地名]本荘市松ヶ崎 松ヶ崎

ころも川の河口部で日本海に面し、東は六呂田ろくろだ村・赤平あかひら村(現由利郡岩城いわき町)を経て亀田かめだ(現岩城町)に続き、北は二古ふたこ(現岩城町)、南は神の沢しんのさわ村に接する。大野おおの岱に由利一族の志摩介維正の大野館があったと伝え、高野荒たかやあら町は赤尾津氏・楯岡氏が亀田大野かめだおおの(現岩城町亀田)高城たかしろに居城した時の市街地であったが、慶長一五年(一六一〇)本荘尾崎ほんじようおざき城築城とともに「市民皆家居ヲ同処ニ転セリ」(羽後国由利郡村誌)といわれる。

近世初期には大野村ともいわれ、古河古松軒の「東遊雑記」に「松ケ崎は大野ともいひ」とある。

松ヶ崎村
まつがさきむら

[現在地名]勝山市荒土あらど町松ヶ崎

滝波たきなみ川高位扇状地の末に位置し、九頭竜くずりゆう川右岸に南面する。勝山街道に沿い、東は新保しんぼ村、西はさら川を渡って伊波いなみ村に至る。「松ケ崎」の名は天文八年(一五三九)一〇月一八日の平泉寺賢聖院々領所々目録(平泉寺文書)に、「松田村、松崎堂之後」とみえ、永禄一一年(一五六八)六月二日の高村存秀当知行目録(同文書)には「松ケ崎村キハ」と村名がみえる。慶長五年(一六〇〇)から福井藩領、寛永元年(一六二四)勝山藩領、正保元年(一六四四)幕府領で福井藩預地、貞享三年(一六八六)幕府直轄領、元禄四年(一六九一)以降勝山藩領となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報